船生かぶき村 かわら版 令和5年4月2日

【★かぶき村に話題有り…。】

 『前号までの『船生かぶき村・かわら版』は、『三咲金太郎』君の、話題を特集致しましたが、実は、『バーデンバーデン』公演の翌月は、愛知県・飛島(とびしま)村の『ヘルス共和国』での公演でした。その『ヘルス共和国』には、三日に一度は顔を見せる『母娘』がいました。

母の名は『小川朝子』。娘の名は、上から順に『小川範子』『小川恵』末娘の『妙子』の三姉妹でした。三人とも、大衆演劇の世界に興味がある様子だったので、劇団暁に入らないかとアタックしました。この時も、説得にあたったのが、『金太郎』君です。晴れて『撫子三姉妹』の誕生です。三人の初舞台は、豊橋市の『豊橋ラドンセンター』でした。その芸名は、顔が、お月様の様に丸いので、『三咲さつき』。本名の恵から『湊めぐみ』。

光ゲンジの諸星和美ファンである妙子に『三咲和美』と名付けました。また、この姉妹には、和夫というお兄ちゃんが居て、この和夫君は、喜劇役者の左とん平に似ていたので、『三咲とん平』と呼び、私と『ふぶき梨花』『三咲金太郎』の三人で出発した『新生劇団暁』は、 てつや・梨花・金太郎・さつき・めぐみ・和美・とん平・夏樹・春樹となり、『老いぼれ劇団』と笑われた劇団は、私が一番の年長者になりました。

【★三咲てつや、最後の弟子…。】

『三咲きよ美・誕生』。

 平成元年八月に弟子入りした、夏樹・春樹に遅れる事、三か月。その年の十一月『劇団暁』は、愛知県・岡崎市・『岡崎健康ランド』での公演でした。

一人の若い娘が、両親と共に私の下に訪ねて来る。家の娘の歌を聞いて下さいと言うので、聞いてみると成程上手い。そこで、即、入門を許可しました。

それが、今の二代目座長『三咲きよ美』でした。いよいよ、若返りが進む『劇団暁』です…。

【★劇団暁の巡業はつづく③…。】

 平成元年一月は、私にとって忘れる事のない、辛い、悲しい月でした。我が『劇団暁』は、埼玉県・妻沼町の『妻沼ラドンセンター』と、岩手県宮古市の『ホテル近江屋』の二か所の公演でした。

といっても、ダブルブッキングではないのです。

大衆演劇では、前年度の『ホテル近江屋』公演で、「また、近いうちの再開を…」と挨拶するのですが、ホテル側では、また来年も公演すると、早合点してポスターまで作ったのだから、必ず公演してくれ…」となり、こんな事になりました。

さて、妻沼ラドンセンターは、私が座長で、さつき・和美・とん平・きよ美に、ゲストに浅草軽演劇で鳴らした『沢田健』。大衆演劇のベテラン『東千之助』をゲストに迎えたメンバーでした。

一方の『ホテル近江屋』は、ふぶき梨花を座長に、夏樹・春樹・千秋と大月好太郎・一邑紅晶ら九人のメンバーでした。幹部の二人に、こっぴどく扱(しご)かれたらしいが、そんな時、私の『楽屋ぐらし』『てつや太鼓』を聞いて、萎れた気分を晴らしていたと聞いています。春ちゃんがブランコから落ちて、口元が腫れた時、どうしても舞台に出て貰いたいと化粧を施しながら、「ごめんネ…」と泣いたと言っていました。ところが。我が故郷・久留米では、最愛の父ちゃん『小川始』が亡くなったのです。私を満州から連れて帰り、貧乏のどん底の中、私を『大学』まで行かせてくれた父ちゃんです。

いや、本当は祖父(じい)ちゃんが死んだのです。

私は、急いで岩手県宮古市の『ホテル近江屋』から故郷久留米に帰省しましたが、葬儀には間に合いませんでした。こここで訂正があります。二年連続の『ホテル近江屋』公演でしたので春ちゃんがブランコから落ちたのは前の年で、父ちゃんが死んだのが次の年でした…。

【★てつやの五行ポエム…。】

私を、満州から連れ帰ってくれた父ちゃん…、

貧乏のどん底でも…、

福岡大学に入れてくれた父ちゃん…、

劇団旗揚げを喜んでくれた父ちゃん…、

日本一、いや世界一の父ちゃんだった…。

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