船生かぶき村 かわら版 令和5年4月3日

【★かぶき村に話題有り…。】

 昨日の『船生かぶき村・かわら版』で、平成元年・一月八日の『父ちゃん』が亡くなった事。

入団から間もない『夏ちゃん・春ちゃん』が、岩手県宮古市の『ホテル近江屋』で、様々な苦難を経験した話を描きましたが、翌年も、子供中心の『劇団暁』は、相変わらずの苦戦を強いられました。

世間からは『子供劇団』それが、とか、『オモチャ劇団』。『ガラクタ劇団』と、笑われていましたが、私は、今に見ていろ、十年経ったら、一門の劇団にして見せると思っていました。そして、その四年後、『船生かぶき村』という、常設劇場を建てたのである。

平成六年十一月十一日の事でした。

創設時のメンバーは、『三咲てつや』と『ふぶき梨花』。『三咲さつき、湊めぐみ、三咲和美』の三姉妹と、『三咲夏樹、三咲春樹』の兄弟。それに『三咲きよ美』の八人です。でも、劇場を建てた後も、三咲も馬鹿な奴だ。あんな所に劇場を建てても一年と持たない。

いや、下手をしたら、半年持たずに潰れるだろうと嘲笑されました。ところが、どうでしょう。

一年持たないとわれていた『船生かぶき村』は、二十八年過ぎた今も、存続しています。

勿論、私も妻も頑張りました。それにも増して、六人の弟子達が頑張りました。

私は弟子達を信じていました。この弟子達と一緒なら絶対に『船生かぶき村』は、潰れないと信じていたのです。私は二十七歳の時、全くの素人から、大衆演劇の世界に飛び込みました。六人の弟子達も皆んな素人、つまり、『劇団暁』は、素人集団の劇団なのです。

『船生かぶき村』オープンの時、『立川談志師匠』がお祝いに駆けつけてくれました。その祝いの言葉が忘れられません。「劇場を建てるのは、金さえあれば出来るが、それを継続することは難しいと仰って、私も、立川一門の弟子達と共に、何かあれば、応援に駆けつけます…」と祝辞を述べて頂きました。

真に有難い、お言葉でした…。

【★談志師匠と船生かぶき村 】

『劇団暁・最後の巡業』

 平成六年七月。劇団暁終焉の舞台は、静岡県袋井市の『袋井ラドン健康センター』でした。

いや。そのつもりでしたが、その日の夜。私達は、東京都西新宿にある『安田生命ホール』で

立川談志師匠との約束で、『安田生命ホール』の『狼劇場』で『立川流』と『大衆演劇』との

コラボ公演を行う事になっていました。

私達は、『三咲てつや』『ふぶき梨花』『三咲さつき』『湊めぐみ』『三咲和美』『三咲夏樹』『三咲春樹』『三咲きよ美』。談志師匠組は、『談志師匠』『ポール牧師匠』『毒蝮三太夫師匠』『ガッツ石松』『沢竜二先生』『参議院議員・上田哲先生』という豪華メンバーでした。

第一部が『劇団暁』の舞踊ショー。

第二部は、『談志師匠』のトークショー。

その終演後、『毒蝮三太夫師匠』が言った言葉が忘れられません。

「いやぁ、本物の大衆演劇だ。素晴らしい…」と、お褒めの言葉でした。

 安田生命ホールでの仕事を終え、私達は一路。

塩谷町の我が家へ帰りました。帰りの、バスの中で私は弟子達に「いやぁ、最後の最後に、良い仕事が出来たなぁ…」と言いました。ところがです。帰ってみると玄関に貼り紙が貼ってありました。『梨花さんの、お父さんが、亡くなられました。すぐに実家へ行って下さい…」と、書いてありました。梨花さんの父、私にとっては、義父が亡くなられたのです。

駆け落ち同様に巡業に出て、今度こそ、親孝行しようと帰った日に、亡くなられるとは事実は小説よりも稀なり、信じられますか、でも、本当の話です…。

【★てつやの五行ポエム…。】

父、関谷克己の死…、

ふぶき梨花は泣いた…、

勿論。私も泣きました…、

梨花さんの、親戚一同も泣いた…、

でも一番、悔しかったのは梨花さんの父です…。

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