船生かぶき村 かわら版 令和5年4月5日
【★船生かぶき村時代・初期…。】
『三人目の救世主・栃木科研会長・吉原広様』。
吉原会長は、若い頃から芝居っ気があって、奥様との結婚式では、かっつけの鬘(かつら)を被って紋付き袴の旦那様は、文金高島田の奥様と、古式豊かな式を挙げられたと言います。
芝居好きの会長は、ある日突然『船生かぶき村』を訪れて、私に「弟子にして下さい…」と言われした。見れば、私より一回りほど年上に見えたので、私は言いました。「この世界は、弟子入りは、十代か遅くとも二十代でなければ無理ですよ…」と丁寧に、お断り致しました。それでも、何としてでも弟子になりたいと言われるので、では『かぶき村』の 『後援会長』になって下さいと言いました。
そうすれば『後援会長』が道楽で舞台に出る事になり弟子達も納得すると思ったからです。
一年後、『かぶき村』の創立一周年記念。
『慰安旅行』を開催。宿泊は『ハワイアンズ』泊り、翌日は、会津白虎隊の聖地。白虎隊隊士の墓参りをさせて頂きました。先ずは『ハワイアンズ』の宴会場では、さすがに後援会長らしく、見事な御挨拶を頂きました。また、墓参りの際、それぞれの隊士の墓の前で、『石田和助』には、この様な謂れがあり。
『篠田義三郎』は、家柄も良く成績優秀にで、二番隊の組長であった事。井深茂太郎は、後に『株式会社・ソニー』の創立に尽力した人であった事など一人一人説明して下さり。歴史に博学な所を、遺憾なく発揮してくれました。
また、『矢板市文化会館』公演の折は、筆頭家老の『西郷頼母』役で出演して頂き、また、三咲春樹主演の『遠州森の石松、焔魔堂の最後』では、『清水次郎長』役で大活躍でした。
こうして『後援会長・吉原広氏』は『かぶき村』のイベント開催では、社員六十名を引き連れて、何時も、客席を盛り上げてくれました。紛れもなく、
『船生かぶき村』救世主の一人でした…。
【★船生かぶき村時代・初期】
平成六年十一月十一日。『船生かぶき村』創設の頃。夏ちゃんが九歳。春ちゃんが六歳だった二人は兄の夏樹が、中学二年生。春樹が小学六年生になっていました。かぶき村の窓から見ると、ランドセルを背負って学道を歩く、小学一・二年生の姿を見て、「あぁ、夏ちゃん、春ちゃんと出逢ったのは、こんな年頃だったなぁ…」と感慨にふけっていました。
そうです。平成元年八月に知り合って、六年の歳月が流れていたのです。明くる平成七年三月。春ちゃんの『卒業式』の時、私は、あの救世主「藤門軌道」の、藤門久会長に相談致しました。
その時、春ちゃんは、北海道の『岩内小学校』に通っていたのです。
会長が「じやぁ、私が迎えに行ってやる…」と仰って遠い北海道まで、飛行機で迎えに行って下さいました。
勿論、北海道往復の料金は『藤門会長』が持って下さったのです。その後、私が作詞作曲するのが趣味だと言えば、「じやぁ、私がエレクトーンを買ってやる…」と言って、高価なエレクトーンを買って下さいました。貧乏劇団『劇団暁』。
貧乏所帯の『船生かぶき村』は、一歩ずつ前進する事が出来ました。思えば三人の救世主。
関東ホンタモータースの『大島照光社長』。
藤門軌道の『藤門久会長』。
栃木科研会長の『吉原広会長』。
この方々の、御支援が無かったら創立二十八周年は、迎えられなかったと思います。
春ちゃんも、生まれて初めて飛行機に乗れて、晴れて、小学校を卒業出来て、本当に幸せ者です。
あの時の感動は、私も、ふぶき梨花にとっても忘れられない思い出になりました。
令和五年四月から、平成七年三月の卒業式を偲んで…。
【★てつやの五行ポエム…。】
私を助けてくれた、三人の救世主…、
関東ホンダの、大島照光社長…、
藤門軌道の、藤門久会長…、
栃木科研の、吉原広会長…、
今尚、感謝の方々です…。