船生かぶき村 かわら版 令和5年4月4日

【★船生かぶき村、オープン…、】

 平成六年八月三十一日。ふぶき梨花の父、『関谷克己』が非業の死を遂げたが、実は、その半年前から『船生かぶき村』の建築は始まっていた。父は、劇場建築の進捗状況を見る為に、毎日の様に、矢板から船生まで来ていました。

その時の父は、『船生かぶき村』完成を楽しみに、また、長い巡業を終えて帰って来る。ふぶき梨花との再会を楽しみしていたに違いない。

 という事で、平成六年十一月十一日にオープン致しましたが、その準備期間を考えて、八月三十一日にしたのでありました。準備期間は、アッという間に過ぎて、ここで、杮(こけら)落しのセレモニーは、

第一日目。地元『合柄橋』の皆様を招待しました。

第二日目。巡業中にお世話になった『贔屓(ひいき)』

の皆様を招待しました。

第三日目。ふぶき梨花の親族・友人を初め。梨花さんの、(小・中・高・短大など)学校時代の皆様を、招待いたしました。

 その第一日目には、落語・立川流家元、談志師匠を御迎えして、三咲てつやとの繋がりを、事細かく 説明しながら、ユーモアを交えての祝辞でした。

三日続いたセレモニー期間は、押すな押すなの大盛況でしたが、次の日からは、毎日毎日、顧客ゼロの日の連続で、気の弱い私は、将来の不安を感じ、身も心も縮んでしまいました。危うし、船生かぶき村…。

【★船生かぶき村、三人の救世主…。】

『関東ホンダモータースの社長・大島照光様』

『藤門軌道の会長・藤門 久様』

『株式会社『栃木科研』会長の吉原 広様』

令和五年の今日まで二十八年間続いた『船生かぶき村』があるのは、この方々なしでは考えられません。三人の方々が、どの様にして『船生かぶき村』を助けて下さったかは、次のコーナーで書かせて頂きます…。

【★三人の、救世主の横顔…。】

『関東ホンタモータース社長・大島照光様』は、ふぶき梨花の親戚筋にあたる人で、矢板市の名士で、自らが組織していた『長峰会』の会員を集めて、自らの、会社の『忘年会』や『新年会』を行い、また、長峰会の『忘年会』や『新年会』。

社長の友人が経営する『川島製作所』の『忘年会・新年会』。『藤田勝土建』の『忘年会』。

大島照光社長の応援は『忘年会・新年会』に限らず『かぶき村』が仕掛けたイベント『桜祭り』『座長大会』『浪曲名人会』『カラオケ大会』など、色々のイベントに、大勢の御客様を向けて下さいました。イベントを開催するたびに、百人以上のお詰めかけ下さるという感激は、今尚、語り草になっています。

『藤門軌道・会長、藤門久様』

 この方の支援が面白い。

ある日の事、突然。会長が私の楽屋に入ってきて、ポンと、二十万円差し出して、「これ、電気代の足しにしな…」と言われました。余りに突然の事で、私が恐縮していると、「遠慮することはない。座長の生き方が好きなんだ。いわば、男が男に惚れたんだから…」と、言われました。それから数日経って、また二十万円を出して、「町内の年寄りを二十人連れて来たから、これで芝居を見せてやってくれ…」と言われるのであった。よく考えると、二十人で二十万円と言えば、一人、一万円の観劇料になるのである。これには、ふぶき梨花も、弟子達も大喜びで、化粧をして、舞台セットをして、大わらわの芝居が始まりました。忘れられない救世主の話は、次回の『船生かぶき村・かわら版』で書かせて頂きます…。

【★てつやの五行ポエム…。】

この世には、『生善説』と『生悪説』があるが…、

私は、『生善説』が好きである…、

だって、赤ん坊が生まれて来た時は…、

みんな、純真無垢で生まれるんだから…、

私は、『生善説』を信じます…。

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