船生かぶき村 かわら版 令和5年3月26日
【★かぶき村に話題有り…。】
一昨日。三月二十四日(金曜日)』の『かぶき村』は笠間ロータリークラブの依頼で、『台湾交流会』に出演致しました。メンバーは、三咲きよ美・梨奈。さつき。『妃咲劇団』の、妃咲ひなた・妃咲ほる・藤美匠・小山晶士と、ドライバーの八木ちゃんです。
果たして結果は、皆んなが帰って来た時、私が、「どうたった…」と聞くと、全員。揃って、「大成功でした…」の言葉に、二代目ありがとう。ひなたちゃん有難うと、小踊り致しました…。
【★てつや、流し時代の思い出④…。】
私は、この『市川喜章劇団』で、昭和五十一年から、五十八年『劇団暁』を、旗揚げするまでの、八年間。
広島県・島根県・鳥取県・愛媛県・香川県・徳島県・大分県・福島県等を巡業し、不思議な巡り合わせで愛知県・吉良町。私が流しを始めた『吉良壮』の
仕事が入ったのです。そこで私は、白ばら音楽事務所を訪ね、流しをさせて頂きました。。歌を唄える私が『おん鳥』で、歌を唄えない喜章座長が『めん鳥』です。私がアコーディオンで、喜章座長がベースギター。楽器弾けなくても、簡単な稽古で出来るベースの迷コンビ誕生です。折しも桜満開の季節、岡崎公園の『桜祭り』に繰り出しました。
岡崎公園は、朝十時から、夜の十時まで営業していて、計十二時間です。流しの料金は三曲千円です。
此の時ばかりはと、私達も頑張って、多い時は、一日・五万円くくらいは稼いだものです。
岡崎公園の『桜祭り』は、二週間ほど開催されていたので、二人で『ン十万円』ほど、稼ぎました。
ちなみに、当時、私か持っていたアコーディオンは、『エクセルシャ』の、百二十ベースの、重さ十㎏で、それを一日中、担いでいるのは並大抵でないもので、それが出来たのは、私が若かったからです。
それに、何時かは『劇団』を旗揚げしたいと思っていたからでもあります…。
【★てつや、流し時代思い、出⑤…。】
私が、岡崎公園桜祭りで、喜章座長と一緒に、流しをしたのが、昭和五十三年四月であった。
それから五年後の五十八年六月。遂に『劇団暁』を旗揚げしたのです。その時ばかりは、喜章座長の引き留工作は壮烈であった。それは、
南座の社長であり、中には私の贔屓さんもいた。
色々な、引き止め方であった。集約すると、こうだ。
座長の条件として、
一、誰もが認める、大衆演劇界の名門であること。
二、誰もが認める、芸達者であること。
三、多くの資本があること。衣装・かつら・音響資材・照明器具がある事。
四、少なくとも、三十本の外題を持っている事。
座長になって苦労するより。『花形』で気楽にやる方が安心だよ。
あれやこれやと考えていたら、芝居のネタは、せいぜい五本程度で、
かつらは六面。衣装は茶箱が三つ。
言わば、無い無いずくしの旗揚げである。
有るのは、どうしても座長になりたいと言う情熱だけである。どうする『三咲てつや』。
おっかなびっくり、『劇団暁』の旗揚げは、昭和五十八年六月。栃木県・那須塩原郡・西那須野町『那須ヘルスセンター』での公演でした。旗揚げの数日前、私は夢を見ました。私は夢の中で、アコーディオンを弾きながら歌を唄っている夢です。その曲こそ、
『楽屋ぐらし』と『てつや太鼓』の。
旗揚げ記念曲です。夢に見るほど、座長になりたかった私です。さつきも知らず、めぐみ・和美も知らない。夏樹・春樹も知らない。きよ美も、知らない。それどころか、ふぶき梨花でさえ、私と出逢う、以前の話ですから…。
【★てつやの五行ポエム…。】
義理と人情を、秤にかけて…、
義理より、重い夢があり…、
人情より、大きい夢もある…、
旗揚げの夢、座長になる夢…、
弟子時代から、持っていた私の夢…。