船生かぶき村 かわら版 令和5年3月20日
今朝、私の粗相から、三月十七日以降の『船生かぶき村・かわら版』が消えてしまい、私は慌てて、三月二十日からの『かわら版』を書いています。というのは、本日までの『かわら版』は、滞る事なく、既に配っているからです
これからも、間違いなく配ります。御安心を…。
【★てつや、修業時代の思い出…。】
『美国舞踊劇団時代②』
その頃、富山県魚津市に『金太郎温泉』という、北陸屈指のヘルスセンターがありました。
その金太郎温泉で、私にとって忘れられない思い出があります。私が収集していたレコードの中に、
浪曲家『真山一郎』の『日本の母』という外題がありある母が、交通事故で息子を失います。その加害者が母の家に謝りに行き、亡くなった息子さんに代わって私に親孝行をさせて下さい。という物語です。
私は、この浪曲を芝居にしましょうと進言しました。
大夫元の国本純三郎先生も、それは面白いと、舞台化する事になり。私は早速、魚津警察署を訪ね、署長に直談判、魚津警察署の後援を取り付け、数々の交通事故の写真をお借りして、金太郎温泉の廊下に貼ったのである。公演当日朝から地元の、『北國新聞』『北日本新聞』『北陸中日新聞』。また、全国新聞の、『朝日新聞』『毎日新聞『読売新聞』の 記者が取材に入りました。これには私も国本先も、驚いたのは言うまでもないが、それには裏があって魚津警察署の山下署長が、全新聞社に電話を掛けて下さっていたのです。客は鈴なり、大入り満員、金太郎温泉・始まって以来の記録だったのです。
国本先生は、金太郎温泉からだけではなく、『魚津警察署からも感謝状を頂いて大感激。
「私は、悪い事で警察に世話になった事はあるが感謝状を貰うなんて思わなかった…」
たった一枚のレコード『浪曲・日本の母』にこれほどの、幸せを頂戴するとは、あぁ有難や、有難やの一説でした…。
【★てつや、流し時代の思い出…。】
私は、日に日に上達するアコーディオンの腕を、試したくなり、『演歌師』の道を求め、美国劇団をやめて、『流しの世界』に飛び込みました。
『吉良壮』の近くにある西尾市でした。私は先ずこの地区・西尾市・吉良町・蒲郡市・碧南市を束ねる『白ばら音楽事務所』を訪ねました。事務所の社長は榊原氏。この辺りは吉良温泉・形原温泉・西浦温泉と温泉が多く、私は、西尾市・碧南市の、夜の街を流して歩き、時には、ホテルのバンドの一員としてクラブ演奏をしたり、お座敷廻りをする事もありました。私が、白ばら音楽の社長から、与えられた縄張りは、碧南市の新川町地区でした。
そして『神谷作造』という大先輩をコンビとして付けてくれました。神谷先輩が、ギター、私が、アコーディオンのコンビ誕生です。
榊原社長は、私の教育係として、神谷先輩を付けてくれた節があります。一人で流して歩くのを『ヤリ』と言います。二人で流すのを『つがい』とこの『つがい』には色々あります。
一人が、楽器を弾いて、一人が唄うのが、オーソドックスで、唄う方が『雄鳥』で、楽器しか弾かない人を 『雌鶏』と言います。私と神谷先輩は、二人とも楽器を弾いて、歌を唄うので雄鶏コンビです。
私は、半年後には一人で歩けるようになり、『ヤリ』で歩ける様になりました。
一人で歩ける様になった私ですが、面白い話があります。ある『居酒屋』で流していると、御客さんから、「兄ちゃん。『俵星玄蕃』は唄えるか、唄ったら一万円やるよ…」と言われ、私は、〆(しめ)た…」と思いました。
『俵星玄蕃』は、中学生の頃から唄っていたからです。続いて『赤垣源蔵、徳利の別れ』のリクエスト、此れも唄って、二万円ゲット…。
【★てつやの五行ポエム…。】
『芸は身を助く』、言われ続けた名言である…、
歌は芝居の様に…、芝居は、唄う様に…、
唄の上達は、芝居の上達に繋がる…、
好きこそ、ものの上手なり…、
私を助ける、長編歌謡浪曲…。