船生かぶき村 かわら版 令和5年4月8日

【★船生かぶき村時代・初期。

 私は、大好きだった父ちゃんが、久留米市の消防団(十三分団)に協力し、自警団を作って頑張っていました。という事で、子供会の皆んなと、力を合わせ。毎晩、祈頭を打ちながら、『夜回り』をしていた記憶があります。そして、町民の一人として、矢板消防署の、防火・防犯・更に交通安全運動に、協力したいと願い出て、スピーカー付きのワゴン車で町回りをする事になりました。私は、役者であることを利用して、私が『水戸黄門』。夏樹・春樹が『助さん・格さん』に扮して、さつきちゃんが『うっかり八兵衛』となり、矢板地区、塩谷地区を、街頭演説致しました。

町ゆく人も、私達の扮装した姿に興味を示し、足を止めて聞いてくれました。矢板警察署の皆さんも喜んでくれたようでした。

それ以上の反応は、『船生かぶき村』って、どんな所だろうと、『かぶき村』の認知度も上がり、以来、『船生かぶき村』の入場者が鰻登り。

思いもよらぬ副産物を勝ち取り、私も、ふぶき梨花も、弟子達も大喜びでした。

この話は、下野新聞にも掲載され、関東の警察に知れ渡り、平成八年九月。埼玉県浦和文化センター。

平成九年十月。茨城県大子警察署。茨城県神栖市。神栖警察署。茨城県水戸市。水戸警察署。

東京都・朝霞警察署。など、立て続けに、キャンペーンを、する事になりました。

『芸は身を助く…』とは、よく言ったもので、古来。言い伝えられた言葉には、『石が浮かんで、木の葉が沈む…』。

この言葉は、「無理が通って。道理が引っ込む…」に、繋がります。

昔の。人は、『人の人情』、『浮世の運命』を。広く、後世の人に伝えています。

『諺(ことわざは)、人生の羅針盤です…。

【★泣虫てつやの、遠い思い出…。】

 私、昭和十八年、十二月九日。満州で生まれ、終戦後、祖国・日本の福岡県久留米市に引き揚げて参ました。母(照子)は、引き揚げ船の中で亡くなり、父(恭造)は、シベリアに抑留されておりました。私は、母方の祖父ちゃん・婆ちゃんに満州から連れ帰って頂きました。

祖父母に育てられた私は、何時もいつも、泣いてばかりいた、泣虫に育っていたものです。

 ある日の朝、祖父ちゃん祖母ちゃんは、目新しい下駄を買ってくれました。私は喜んでその下駄を履いて、学校に行ったのですが、靴を履いて、登校していた友達に笑われて、泣虫の虫が出て、泣き出してしまいました。

学校が終わり、下校した私は、その話を祖父母に話すと、お前は「泣き虫だからなぁ…」と笑いながら、「そんな事で泣くんじゃない。笑う奴には笑わせておけ、お前は、悪い事をしたんじゃない。恥ずかしい事をした訳じゃないんだから、堂々と学校に行きなさい…」と励ましてくれました。

明治生まれの祖父ちゃんは、小学校三年で奉公に出たという苦労人です。

そんな祖父ちゃんの言葉は、一本、筋が通っています。御覧の通り、男としては小さい私ですが今の私より小さい、小柄な祖父ちゃんですが、肝っ玉のでかい、男の中の男です。

幼かった私ですが、祖父ちゃんの武勇伝は何度も見ています。大柄の男性が、小柄で、しかも年寄りの祖父ちゃんに、喧嘩を仕掛けます。

ところが、小柄でも足が速い祖父ちゃんは、難なく、首を捕まえての首投げで、投げ倒す様を何度も見ています。そんな頼もしい姿を見て、気分も高揚した私でした…。

【★てつやの五行ポエム…。】

小柄でも、頼もしかった祖父ちゃん…、

何時も優しい祖母ちゃん…、

そんな、祖父母に育てられた弱虫の私…、

祖父ちゃん・祖母ちゃんには子供がいない…、

孫の、私が子供です…。

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