日々かわら版
日々かわら版
船生かぶき村 かわら版 令和5年4月9日
【★船生かぶき村時代・初期。】
『船生かぶき村・創立十周年・特別企画』
【★少年白虎隊に寄せて…。】
この、『矢板市文化会館』で開催された。『少年白虎隊』は、これまでの『芝居巡礼』の中でも記憶に残る作品として、忘れられない芝居でした。
そのパンフレットをめくると、『きよ美座長』『夏樹座長』『春樹座長』の挨拶文は、彼らの意気込みが感じ取れます。
では早速、その『挨拶文』を読んでみましょう。
先ず、夏樹座長の挨拶文です。
『御挨拶。兄座長・三咲夏樹』。
師走の、お忙しい中、御来場頂きまして、厚く御礼申し上げます。本日の芝居は『少年白虎隊』です。この脚本を読んで感動致しました。自分の幸せや、快楽のために、『オレオレ詐欺』で、お年寄りを騙す人。借りてもいない金を『架空請求』する人。偽札を偽造する中学生。親の年金を無断で引き下ろす者や、親を鉄アレイで殴り殺す馬鹿者。世の中、腐りきっています。そんな時、清々しい『白虎隊』の精神に触れる事が出来て幸せです。親や国の為に命を落とすというのは、時代遅れかも知れませんが、その精神は、尊いとおもいます。とにかく、一生懸命に演じますので、しっかりと御楽しみ下さいませ…。
続いて、春樹座長の挨拶文です。
『御挨拶・弟座長・三咲春樹』。
『白虎隊』の心に、感動しました。感動のあまりに私は、この芝居で、関東・東北・北海道のツアー公演を、先生に進言しました。それほど、気に入った芝居です。とにかく、大勢の人に見て頂きたいのです。それが実現すると、月に三日程度、『船生かぶき村』を休む事になるのが気がかりですが、何はともあれ、本日一日。ごゆっくりと御楽しみ下さいネ。舞踊ショーの最後には、島根県に伝わる『無形文化財』の『大蛇』を使った『龍神ショー』も
あります…。
つづいて、
『御挨拶・二代目座長・三咲きよ美』。
此度は、大勢の御来場を頂きまして、誠に有難うございます。本日は、私達の師匠・『三咲てつや』が書き下ろした。『少年白虎隊』を、御覧戴く事になりました。私自身。最高の脚本に巡り合えて幸せです。子供が親を殺す時代に、親の為に、親為に故郷の為に、命を捧げる少年達が居た事を、伝えられるのは、役者として最高の幸せです。それも、遠い昔の事ではなく、わずか百五十年前の日本に本当にあった事を、皆様に伝えられるのは、役者の使命として、熱演する覚悟です。それが、『白虎隊隊士』への供養だと思います。どうか最後まで、ごゆっくりと、お楽しみ下さいませ…。
『御挨拶・船生かぶき村・女将・ふぶき梨花』。
『船生かぶき村』がオープンした時。春ちゃんは小学六年生。夏ちゃんが中学二年生でした。
その春ちゃんが二十一歳。夏ちゃんが二十四歳。こんなに成長して、きよ美ちゃんも、今では二代目座長として活躍しております『光陰矢の如し』とは言いますが、過ぎ去った月日はあっという間でした。ほかに、『飛竜貴』もいます。
『三咲大樹』もいます。『さつき・めぐみ・和美』もいます。その他『国本一夫・峰純子』もいます。
『劇団暁』総出演の晴れ舞台。本日一日、存分に御堪能下さいませ。
『御挨拶・座長・三咲てつや』。
私が、ふと手にした小説全集の中に、この『少年白虎隊』がありました。この作品を芝居にしようと、台本を書いていて、涙が溢れ出ました。
まだ、芝居をする前から涙が止まらないという事は必ず、成功すると思った瞬間でした。
さぁ、私の自信作『少年白虎隊』の開演です…。
【★てつやの五行ポエム…。】
会津の『白虎隊』がそうだった…、
太平洋戦争の『神風特攻隊』がそうだった…、
親のため、故郷の為、少年達が死んでいった…、
ただの、美談では済ませられない…、
本当に、気の毒な死であった…。(合掌)。
船生かぶき村 かわら版 令和5年4月8日
【★船生かぶき村時代・初期。
私は、大好きだった父ちゃんが、久留米市の消防団(十三分団)に協力し、自警団を作って頑張っていました。という事で、子供会の皆んなと、力を合わせ。毎晩、祈頭を打ちながら、『夜回り』をしていた記憶があります。そして、町民の一人として、矢板消防署の、防火・防犯・更に交通安全運動に、協力したいと願い出て、スピーカー付きのワゴン車で町回りをする事になりました。私は、役者であることを利用して、私が『水戸黄門』。夏樹・春樹が『助さん・格さん』に扮して、さつきちゃんが『うっかり八兵衛』となり、矢板地区、塩谷地区を、街頭演説致しました。
町ゆく人も、私達の扮装した姿に興味を示し、足を止めて聞いてくれました。矢板警察署の皆さんも喜んでくれたようでした。
それ以上の反応は、『船生かぶき村』って、どんな所だろうと、『かぶき村』の認知度も上がり、以来、『船生かぶき村』の入場者が鰻登り。
思いもよらぬ副産物を勝ち取り、私も、ふぶき梨花も、弟子達も大喜びでした。
この話は、下野新聞にも掲載され、関東の警察に知れ渡り、平成八年九月。埼玉県浦和文化センター。
平成九年十月。茨城県大子警察署。茨城県神栖市。神栖警察署。茨城県水戸市。水戸警察署。
東京都・朝霞警察署。など、立て続けに、キャンペーンを、する事になりました。
『芸は身を助く…』とは、よく言ったもので、古来。言い伝えられた言葉には、『石が浮かんで、木の葉が沈む…』。
この言葉は、「無理が通って。道理が引っ込む…」に、繋がります。
昔の。人は、『人の人情』、『浮世の運命』を。広く、後世の人に伝えています。
『諺(ことわざは)、人生の羅針盤です…。
【★泣虫てつやの、遠い思い出…。】
私、昭和十八年、十二月九日。満州で生まれ、終戦後、祖国・日本の福岡県久留米市に引き揚げて参ました。母(照子)は、引き揚げ船の中で亡くなり、父(恭造)は、シベリアに抑留されておりました。私は、母方の祖父ちゃん・婆ちゃんに満州から連れ帰って頂きました。
祖父母に育てられた私は、何時もいつも、泣いてばかりいた、泣虫に育っていたものです。
ある日の朝、祖父ちゃん祖母ちゃんは、目新しい下駄を買ってくれました。私は喜んでその下駄を履いて、学校に行ったのですが、靴を履いて、登校していた友達に笑われて、泣虫の虫が出て、泣き出してしまいました。
学校が終わり、下校した私は、その話を祖父母に話すと、お前は「泣き虫だからなぁ…」と笑いながら、「そんな事で泣くんじゃない。笑う奴には笑わせておけ、お前は、悪い事をしたんじゃない。恥ずかしい事をした訳じゃないんだから、堂々と学校に行きなさい…」と励ましてくれました。
明治生まれの祖父ちゃんは、小学校三年で奉公に出たという苦労人です。
そんな祖父ちゃんの言葉は、一本、筋が通っています。御覧の通り、男としては小さい私ですが今の私より小さい、小柄な祖父ちゃんですが、肝っ玉のでかい、男の中の男です。
幼かった私ですが、祖父ちゃんの武勇伝は何度も見ています。大柄の男性が、小柄で、しかも年寄りの祖父ちゃんに、喧嘩を仕掛けます。
ところが、小柄でも足が速い祖父ちゃんは、難なく、首を捕まえての首投げで、投げ倒す様を何度も見ています。そんな頼もしい姿を見て、気分も高揚した私でした…。
【★てつやの五行ポエム…。】
小柄でも、頼もしかった祖父ちゃん…、
何時も優しい祖母ちゃん…、
そんな、祖父母に育てられた弱虫の私…、
祖父ちゃん・祖母ちゃんには子供がいない…、
孫の、私が子供です…。
船生かぶき村 かわら版 令和5年4月7日
【★船生かぶき村時代・初期。】
『劇団暁』が平成六年十一月。オープンした時のスタッフは『芸能部』が、座長の三咲てつや。
副座長の『ふぶき梨花』。さつき・めぐみ・和美。夏樹・春樹。きよ美の八人。表周りのスタッフが、厨房に、ふぶき梨花。梨花さんの従妹の伊藤洋子。梨花さんの妹『木下恵美子』。ドライバーは、梨花さんの叔父様『関谷五郎』。伊藤洋子の兄『伊藤義博』。梨花さんの妹の亭主。『木下仁』。考えてみれば、スタッフは、全員梨花さんの、親戚の方ばかりでした。
付け加えて言うと、さつき・めぐみ・和美・きよ美女性組の弟子も、厨房に入って手伝ってくれました。
面白い話があります。
船生かぶき村がスタートして間もなく、私は、ふぶき梨花さんと遠縁だか、親戚なのだと、いう人が現れて、私が梨花さんに聞くと、「いや、知らない人だ…」言っていたことが、懐かしく、思い出されます。
平成六年十一月から五ケ月後、平成七年三月。
有難い話が舞い込んできました。それは、高根沢町の『阿久津天満宮』に於いて、『劇団暁』の芝居と舞踊を奉納してくれという話であった。しかも、出演料は法外のン十万円というから、正しく有難い話である。
この話は、近頃の『コロナ騒動』が起きるまで、廿年以上続き、感謝感謝のイベントでした。
また、良い話は重なるもので、その年の六月。あの、湯西川温泉の『平家の里』で開催される『平家大祭』への出演依頼があり、これも、十五年以上続いたイベントであった。
この話を持ち込んで下さったのは、春ちゃんを小学校の卒業式に出席するために北海道に迎えに行って下さった。『藤門軌道会長』の、『藤門久様』でした。
正に、感謝に絶えない思い出です…。
【★三咲てつやと六人の弟子。】
私に、六人の弟子がいる事は、周知の通りですが、夏ちゃん・春ちゃんが弟子入りするまでは一番年下の和美ちゃんを可愛がっていました。
しかし、九歳の夏樹君・六歳の春樹君が弟子入りしてからは、和美ちゃんより年下の、夏ちゃん・春ちゃんに、可愛がる対象が移りました。
平成元年一月八日に他界した『父さんの初盆をする為に、福岡公演を選んだ私は、『香椎健康ランド』で出逢った夏樹と春樹。しっかり者の夏樹君はまだしも弟の春樹君は、泣き虫で甘えん坊でした。
当時、大人気を博していた『暴れん坊将軍』になぞらえて、私は、春樹君の事を『甘えん坊将軍』と呼んでいました。二人のデビューは、宇都宮市の『かまぶろ温泉』でしたが、夏樹君は、五木ひろしの『旅烏』で、春樹君は、橋幸夫の『沓掛時次郎』でした。夏樹君はすでに『香椎健康ランド』で踊りを教えていたので、すんなり踊れましたが、春樹君には個人舞踊は無理だと思って、私が、背負って踊りました。二人の衣装は『かまぶろ』の浴衣を着て踊ったという、涙ぐましいデビューでした。デビューの前日。その稽古風景が面白い、春樹君の『甘えん坊将軍』ぶりが発揮されました。
チョッと稽古しては、「喉が渇いた。ジュース呑みたい」暫くして、「喉が渇いた。アイスクリームが食べたい…」。という始末。これには、私も、妻も、大笑いでした。果たして、春ちゃんは覚えているだろうか。あの甘えん坊将軍が、今を時めく『劇団暁』の看板役者とは、驚き、桃ノ木、山椒の木ですよネ。
夏樹・春樹は私の宝、
さつき・めぐみ・和美・きよ美も宝です。
孫弟子の、暁人、隼人、龍人、舞花、鷹人も宝、
愛羅、良羅、憧も宝、
こんなに多くの宝が居て、私は幸せ…。
【★てつやの五行ポエム…。
今は、小さな苗木でも…、
大きくなぁれ、大きくなぁれ…、
真っ直ぐ育つ檜の様に…、
あすなろ、あすなろ…、
天まで伸びる、檜の様に…。
船生かぶき村 かわら版 令和5年4月6日
【★船生かぶき村時代・初期。】
『長峰会会員・藤田勝』氏。
関東ホンダ・社長の大島照光が、組織していた『長峰会・会員の藤田勝』さんも『船生かぶき村』を助けた救世主に違いありません。強面の風貌からは、想像できない優しい人柄で、私は藤田さんを兄の様に慕い、藤田さんも、私を弟の様に、付き合って下さいました。
さつき・めぐみ・和美・夏樹・春樹・きよ美とは、まるで、自分の甥っ子姪っ子と思っておられる様に可愛がって下さいました。例えば、立川談志師匠が、有楽町の『ソミドホール』で、『談志師匠の一人会を開催した時など、夏樹・春樹さつき・めぐみ・和美・きよ美などの弟子達を連れて観劇したり『沢竜二・子役大会に春ちゃんが出演とした時にも、藤田さんは、大勢で矢板から、バスを仕立てて、応援に駆けつけて下さいました。
『長峰会会員であった、関谷五郎氏』。
此の時のバスツアーのドライバーを受け持ったのが、『関谷五郎』氏でした。この関谷五郎さんは。ふぶき梨花の叔父様ですが、可愛い姪っ子の為ならと、『立川談志師匠一人会』『座長大会』『子役大会』など、中でも『座長大会』だけでも、三十回。
『立川談志・落語会』『立川志遊・二つ目昇進披露』
『立川志遊・真打昇進披露落語会』など、数え切れないバスツアーは、全てがドライバーは、何時も関谷五郎でした。
それだけではありません。
十五年間続いた、北海道・定山渓温泉の、『ホテル三渓苑』公演のドライバーも『関谷五郎』です。
また、新潟県・西蒲原郡・田ノ浦海岸の『海華亭かわい』は、十七年続いた巡業地です。という事で、そのドライバーの、関谷五郎氏も、『かぶき村』に、協力した一人であると思います…。
【★船生かぶき村時代・初期…。
顧客拡大を図った企画の数々。
昔からある諺(ことわざ)に、
『稼ぐに追いつく貧乏なし…』とゆう言葉です。
私は、無い知恵を絞って色々のアイデアを駆使し、御客様を集めました。
先ず、持っていたワゴン車にスピーカーを付けて塩谷町、矢板市、旧今市市、鹿沼市・西那須野町をチラシを配って『キャラバン』です。
次に、夜の街の『居酒屋』『スナック』等に、歌を唄ったり、踊りを踊ったりしながら歩きました。
これは、私の『流し時代』の経験を活かした得意分野です。チケットは売れ、チップを頂き、一石二鳥の成果でした。後に、居酒屋・スナックのママから、私の店でのまたキャンペーンしてくれと、キャンペーンの効果は上々でした。極めつけは、深夜零時から始まる『サパークラブ』でのキャンペーンです。
居酒屋や、スナックのママさん方が、店が終わって疲れを癒す『サパークラブ』です。
私はまだしも、夏樹・春樹の若い男たちは、目の色を変えて頑張りました。
すると、どうでしょう。
『居酒屋・スナック』のママさん達から、おひねりの山でした。
この店は、年中無休でしたから、毎日毎日稼がして頂きました。
本当に有難いキャンペーンでした。
捨てる神あれば拾う神あり。
この言葉は。頑張っている人にだけ、与えられる言葉だと思います。頑張った撫子三姉妹、
夏樹・春樹兄弟・きよ美ちゃん。本当に、有難う…。
【★てつやの五行ポエム…。
稼ぐに追いつく貧乏なし…、
捨てる神あれば拾う神あり…、
冬来たりなば春遠からじ…、
私にとって、諺は…、
人生の、道しるべです…。
船生かぶき村 かわら版 令和5年4月5日
【★船生かぶき村時代・初期…。】
『三人目の救世主・栃木科研会長・吉原広様』。
吉原会長は、若い頃から芝居っ気があって、奥様との結婚式では、かっつけの鬘(かつら)を被って紋付き袴の旦那様は、文金高島田の奥様と、古式豊かな式を挙げられたと言います。
芝居好きの会長は、ある日突然『船生かぶき村』を訪れて、私に「弟子にして下さい…」と言われした。見れば、私より一回りほど年上に見えたので、私は言いました。「この世界は、弟子入りは、十代か遅くとも二十代でなければ無理ですよ…」と丁寧に、お断り致しました。それでも、何としてでも弟子になりたいと言われるので、では『かぶき村』の 『後援会長』になって下さいと言いました。
そうすれば『後援会長』が道楽で舞台に出る事になり弟子達も納得すると思ったからです。
一年後、『かぶき村』の創立一周年記念。
『慰安旅行』を開催。宿泊は『ハワイアンズ』泊り、翌日は、会津白虎隊の聖地。白虎隊隊士の墓参りをさせて頂きました。先ずは『ハワイアンズ』の宴会場では、さすがに後援会長らしく、見事な御挨拶を頂きました。また、墓参りの際、それぞれの隊士の墓の前で、『石田和助』には、この様な謂れがあり。
『篠田義三郎』は、家柄も良く成績優秀にで、二番隊の組長であった事。井深茂太郎は、後に『株式会社・ソニー』の創立に尽力した人であった事など一人一人説明して下さり。歴史に博学な所を、遺憾なく発揮してくれました。
また、『矢板市文化会館』公演の折は、筆頭家老の『西郷頼母』役で出演して頂き、また、三咲春樹主演の『遠州森の石松、焔魔堂の最後』では、『清水次郎長』役で大活躍でした。
こうして『後援会長・吉原広氏』は『かぶき村』のイベント開催では、社員六十名を引き連れて、何時も、客席を盛り上げてくれました。紛れもなく、
『船生かぶき村』救世主の一人でした…。
【★船生かぶき村時代・初期】
平成六年十一月十一日。『船生かぶき村』創設の頃。夏ちゃんが九歳。春ちゃんが六歳だった二人は兄の夏樹が、中学二年生。春樹が小学六年生になっていました。かぶき村の窓から見ると、ランドセルを背負って学道を歩く、小学一・二年生の姿を見て、「あぁ、夏ちゃん、春ちゃんと出逢ったのは、こんな年頃だったなぁ…」と感慨にふけっていました。
そうです。平成元年八月に知り合って、六年の歳月が流れていたのです。明くる平成七年三月。春ちゃんの『卒業式』の時、私は、あの救世主「藤門軌道」の、藤門久会長に相談致しました。
その時、春ちゃんは、北海道の『岩内小学校』に通っていたのです。
会長が「じやぁ、私が迎えに行ってやる…」と仰って遠い北海道まで、飛行機で迎えに行って下さいました。
勿論、北海道往復の料金は『藤門会長』が持って下さったのです。その後、私が作詞作曲するのが趣味だと言えば、「じやぁ、私がエレクトーンを買ってやる…」と言って、高価なエレクトーンを買って下さいました。貧乏劇団『劇団暁』。
貧乏所帯の『船生かぶき村』は、一歩ずつ前進する事が出来ました。思えば三人の救世主。
関東ホンタモータースの『大島照光社長』。
藤門軌道の『藤門久会長』。
栃木科研会長の『吉原広会長』。
この方々の、御支援が無かったら創立二十八周年は、迎えられなかったと思います。
春ちゃんも、生まれて初めて飛行機に乗れて、晴れて、小学校を卒業出来て、本当に幸せ者です。
あの時の感動は、私も、ふぶき梨花にとっても忘れられない思い出になりました。
令和五年四月から、平成七年三月の卒業式を偲んで…。
【★てつやの五行ポエム…。】
私を助けてくれた、三人の救世主…、
関東ホンダの、大島照光社長…、
藤門軌道の、藤門久会長…、
栃木科研の、吉原広会長…、
今尚、感謝の方々です…。
女将さん、先日は有難う御座います。
また、お伺いいたしますれば、See.you.soon!
11月のユーユー会館の公演で初めて劇団暁拝見しました!1回目で大ファンになりました。特に春樹座長が大好きです!ファンクラブはありませんか?ゴートウトラベルが始まりましたら船生歌舞伎村へ行きたいと考えています!春樹座長達が入る月を教えてください!楽しみにしています!
二宮美樹様
コメントありがとうございます。
巡業組(夏樹・春樹・暁人座長組)は、年が明けまして2021年2月、船生かぶき村にて上演の予定です。
是非ともお越しくださいますよう、座員全員首を長くしてお待ちいたしております。
お気をつけてお越しください。
なお、以下のツイッターにてもお知らせ等いたしておりますので、ご確認ください。
https://twitter.com/MisakiTetsuyaFK