船生かぶき村 かわら版 令和5年3月28日

 書き終わったぁッ。

二十七日と、二十八日の『かわら版』。只今、二十八日の午前零時五分。

これで、イレギュラーながら、毎日配る『かわら版』。

その約束が守れました。パソコンの師匠、『直井先生』に感謝です…。

【★三咲てつや・作詞作曲作品集…。】

『湯の町情話』

一、一年経って、   二年過ぎて…、

  三年待っても、  来なければ、どうしよう…、

  月の、      八汐橋の畔…、

  一人、      佇んで…、

  あぁ、悲しい、  思い出を…、

  胸に刻んで、   そっと包んで…、

  旅に出る、    私です…。

二、四年たって、   五年過ぎて…、

  六年待っても、  来なければ、どうしよう…、

  淡い、      箒川の流れ…、

  一人、      眺めてる…、

  あぁ、あの夜、  峠道…、

  熱い二人の、   今も二人の…、

  語り合い、    聞こえます…。

三、七年たって、   八年過ぎて…、

  九年待っても、  来なければ、どうしよう…、

  今日も、     八汐橋の畔…、

  お前、      偲んで…、

  あぁ、湯の町、  塩原の…、

  旅の一座の、   こんな男の…、

  真心を、     伝えてよ…。

【★てつやの五行ポエム…。】

布団の中で、男泣きした夏樹君…、

六年生まで、私達の布団にもぐっていた春樹君…、

男らしい、お兄ちゃん…、

甘えん坊の春樹ちゃん…、

どちらも、可愛い兄弟です…。

【★三咲てつや、作詞作曲作品集…。】

『その名は梨花』

一、好きなんだけど、    好きなんだけど…、

  口に出せない、     じれったい…、

  笑顔悲しい、      泣きぼくろ…、

  その名は梨花、     可愛い梨花…、

  うしろ姿に、      投げたキス…、

  見ないでくれるか、   夜の月

二、北から南、       西から東…、

  ちぎれ雲でも、     好きは好き…、

  君は湯の町、      宿の花…、

  その名は梨花、     優しい梨花…、

  雪のホテルの、     駐車場…、

  握る手と手は、     放せない…。

三、好きだと聞いて、    好きだと聞いて…、

  たまらないほど、    嬉しいが…、

  どうにもならない、   さだめ花…、

  その名は梨花、     愛しい梨花…、

  グラス片手の、     カウンター…、

  ひとり飲んでる     なみだ酒…。

【★てつや、弟子達との出逢い…。】

 私には、六人の弟子がいる。一番弟子の『さつき』。

その妹『めぐみ』。その妹『和美』。『夏樹・春樹兄弟』そして『きよ美』である。で、『さつき・めぐみ・和美・きよ美』が、愛知県出身。

『夏樹・春樹』は、福岡県出身である。

三咲さつきが二十七歳。湊めぐみが二十一歳。和美ちゃんが十四での弟子入りでた。そして、三咲夏樹が九歳。三咲春樹が六歳でした。

私は、夏ちゃんの泣き顔を見た事がない。一度だけ、泣いた事がある。

母親が、夏樹・春樹を返してくれと言うので、福岡の実家に帰る事になった時、夏ちゃんは、

布団にもぐって、男泣きしていた。

変わって、春ちゃんは泣き虫だった。面白い話があります。私が『暴れん坊将軍』になぞらえて、『甘えん坊将軍』と呼んでいた。彼は、小学六年まで、私と梨花さんの布団の中に入って、寝ていました。周りの人達に注意されて、泣く泣く一人で寝る様になりました…。

船生かぶき村 かわら版 令和5年3月27日

【★かぶき村に話題有り…。】

 本来なら昨日書いて、本日配るはずの『かわら版』。とんでもないハプニングか起きて、パソコンが壊れ、遅れてしまいましたが、パソコンが治りましたので、明日。本日と明日の『かわら版』を、配らせて頂きます。悪しからず。御免ネ、御免ねぇ…。

【★劇団暁、巡業時代の思い出…。】

 これまでは、私の『修業時代』『流し時代』の思い出を綴って参りましたが、ここからは『劇団暁を旗揚げし、晴れて座長となった私の、巡業時代を思い付くまま、旗揚げについて、旗揚げメンバーを紹介致します。三咲てつや。私の師匠『筑波澄子』。

筑波先生の父『智山正得』。その奥様『筑波初江』。

筑波劇団の大先輩『一志稔』。沢村くに枝。

その弟子『汐路由美』。『姿伸次郎』。その女房、『宮古千鶴』。以上の九人でスタートしました。

 私は、二十七歳の時。故郷久留米市を飛び出し、大衆演劇の世界にと飛び込みました。師匠は、浅草女剣劇で一世を風靡した、『筑波澄子劇団座長』筑波澄子先生でした。

その時から、十二年が過ぎていました。

つまり、三十九歳の座長です。旗揚げメンバーでは、三十九歳の私が一番若く、中には、明治生まれ

大正生まれの人もいて、各地で『歳寄り劇団』。『老いぼれ劇団』と笑われたものです。

『那須ヘルスセンター』の旗揚げから一年後、我が劇団は、同じ栃木県の、塩原温泉。

『塩原温泉ホテル』公演で、運命の人と出逢いました。

そうです。現在の『船生かぶき村・女将』つまり、妻の『ふぶき梨花』と出会えたのです…。

 私と、ふぶき梨花が出逢った年は、十年に一度の大雪で、とりわけ標高の高い塩原温泉の雪は深く、九州育ちの私には、身に沁みる公演でした。それでも、梨花さんとの出逢いは、極寒の寒さを忘れさせるには十分でした…。

【★三咲てつや・作詞作曲作品…。】

『雪舞い峠』。 唄・ふぶき梨花。  

一、すぐに甘える、    泣き癖の…、

  お前をひとり、    帰せない…、

  雪の峠の、      下り道…、

  車を停めて、     手を取って…、

  抱いて温める、    細い肩…、

  あぁ、二人の、

  燃えて二人の、    雪舞い峠…。

二、めぐり逢わなきゃ、  良かったと…、

  思う先から、     また募る…、

  愛しお前の、     なみた顔…、

  髪を優しく、     撫でたなら…、

  笑顔浮かべて、    目をつむる…、

  あぁ、真夜中、

  今は真夜中、     雪舞い峠…。     

三、名前読んだら、    泣けてきた…、

  君は悲しい、     宿の花…、

  寄って崩れて、    苦しそう…、

  なんでそんなに、   飲むのかい…、

  酒に逃げては、    いけないよ…、

  あぁ、湯の町、

  ここは湯の町、    雪舞い峠…。

『解説』 この『雪舞い峠』。

唄っているのは『ふぶき梨花』ですが、この詩の内容は、私が『ふぶき梨花』を思っている詩となっております。

元来、私の作詞は、この曲に限らず、『ロマン』と『哀愁』が基調になっています。

つまり、『ロマン』を、広く描いており、飽くまでも『哀愁』を、追求しています。

初めに『詩』が出来て、後からメロディーをつけるのが普通ですが、先にメロディーが出来て後から詩を書きこむ方法もあります…。

【★てつやの五行ポエム…。】

極寒の塩原温泉で、知り合った『ふぶき梨花』…、

作詞作曲が好きな私は…、

梨花さんとの愛の歌を、何曲か作りました…、 

『雪舞い峠』『その名は梨花』。『湯の町情話』…、

忘れられない思い出よ、永遠に…。

船生かぶき村 かわら版 令和5年3月26日

【★かぶき村に話題有り…。】

 一昨日。三月二十四日(金曜日)』の『かぶき村』は笠間ロータリークラブの依頼で、『台湾交流会』に出演致しました。メンバーは、三咲きよ美・梨奈。さつき。『妃咲劇団』の、妃咲ひなた・妃咲ほる・藤美匠・小山晶士と、ドライバーの八木ちゃんです。

 果たして結果は、皆んなが帰って来た時、私が、「どうたった…」と聞くと、全員。揃って、「大成功でした…」の言葉に、二代目ありがとう。ひなたちゃん有難うと、小踊り致しました…。

【★てつや、流し時代の思い出④…。】

 私は、この『市川喜章劇団』で、昭和五十一年から、五十八年『劇団暁』を、旗揚げするまでの、八年間。

広島県・島根県・鳥取県・愛媛県・香川県・徳島県・大分県・福島県等を巡業し、不思議な巡り合わせで愛知県・吉良町。私が流しを始めた『吉良壮』の

仕事が入ったのです。そこで私は、白ばら音楽事務所を訪ね、流しをさせて頂きました。。歌を唄える私が『おん鳥』で、歌を唄えない喜章座長が『めん鳥』です。私がアコーディオンで、喜章座長がベースギター。楽器弾けなくても、簡単な稽古で出来るベースの迷コンビ誕生です。折しも桜満開の季節、岡崎公園の『桜祭り』に繰り出しました。

岡崎公園は、朝十時から、夜の十時まで営業していて、計十二時間です。流しの料金は三曲千円です。

此の時ばかりはと、私達も頑張って、多い時は、一日・五万円くくらいは稼いだものです。

岡崎公園の『桜祭り』は、二週間ほど開催されていたので、二人で『ン十万円』ほど、稼ぎました。

ちなみに、当時、私か持っていたアコーディオンは、『エクセルシャ』の、百二十ベースの、重さ十㎏で、それを一日中、担いでいるのは並大抵でないもので、それが出来たのは、私が若かったからです。

 それに、何時かは『劇団』を旗揚げしたいと思っていたからでもあります…。

【★てつや、流し時代思い、出⑤…。】

 私が、岡崎公園桜祭りで、喜章座長と一緒に、流しをしたのが、昭和五十三年四月であった。

それから五年後の五十八年六月。遂に『劇団暁』を旗揚げしたのです。その時ばかりは、喜章座長の引き留工作は壮烈であった。それは、

南座の社長であり、中には私の贔屓さんもいた。

色々な、引き止め方であった。集約すると、こうだ。

座長の条件として、

一、誰もが認める、大衆演劇界の名門であること。

二、誰もが認める、芸達者であること。

三、多くの資本があること。衣装・かつら・音響資材・照明器具がある事。

四、少なくとも、三十本の外題を持っている事。

  座長になって苦労するより。『花形』で気楽にやる方が安心だよ。

  あれやこれやと考えていたら、芝居のネタは、せいぜい五本程度で、

  かつらは六面。衣装は茶箱が三つ。

言わば、無い無いずくしの旗揚げである。

有るのは、どうしても座長になりたいと言う情熱だけである。どうする『三咲てつや』。

  おっかなびっくり、『劇団暁』の旗揚げは、昭和五十八年六月。栃木県・那須塩原郡・西那須野町『那須ヘルスセンター』での公演でした。旗揚げの数日前、私は夢を見ました。私は夢の中で、アコーディオンを弾きながら歌を唄っている夢です。その曲こそ、

  『楽屋ぐらし』と『てつや太鼓』の。

  旗揚げ記念曲です。夢に見るほど、座長になりたかった私です。さつきも知らず、めぐみ・和美も知らない。夏樹・春樹も知らない。きよ美も、知らない。それどころか、ふぶき梨花でさえ、私と出逢う、以前の話ですから…。

【★てつやの五行ポエム…。】

義理と人情を、秤にかけて…、

義理より、重い夢があり…、

人情より、大きい夢もある…、

旗揚げの夢、座長になる夢…、

弟子時代から、持っていた私の夢…。

船生かぶき村 かわら版 令和5年3月25日

うぉッ、寒いッ、午前三時の『かぶき村』。

折角、目が覚めたのだからとパソコンを開く、

『船生かぶき村・かわら版』が、私を招く。

頑張るぞ、今日も、明日も、明後日(あさって)も…。

 【★てつや、流し時代の思い出③…。】

 流し暮らしを謳歌していた頃。私は、ある予感がした。私が流して歩く店々に、カラオケボックスが流行り始めたからである。私は思った。

「あぁ、これで、やがては、流しが廃る…」と思い。これでは演歌師では喰っていけないと判断し、又、大衆演劇の世界に戻ろうと決心しました。

この時、私が選んだ劇団は、座長『市川喜章』率いた『やまびこ座』でした。所は、広島県呉市の『呉温泉』というセンターです。このかわら版を読んでいる皆様には、愛知県、碧南市の新川町で流しをしていた私が、遠く離れた西国・広島なのかと御思いでしょうが、流しは日本全国・各都市の流しの元締めに、一升の酒を持って行き、許可を受ければ、三日間だけ、流しが出来るのです。

こうして辿り着いたのが、広島県・呉市だったのです。

 ここで『やまびこ座』のメンバーを御紹介すると、座長・市川喜章。大幹部・桂木英二。姿富士夫。桜井鉄之助。毛利勇。市川英二。江戸っ子千恵。ほかに数名居ましたが、今は、記憶が定かではありません。ここで、驚きのニュースです。

やまびこ座の初日狂言が、本日『かぶき村』でやる『晩鐘・兄と妹』です。配役は、兄の清次郎を市川喜章。飲んだくれの三五郎を、私がやっていたのだから驚きです。また、『劇団暁』旗揚げ公演の、初日狂言が、この『晩鐘・兄と妹』でした。

【★てつや、やまびこ座の思い出…。】

 その翌年、『市川喜章劇団』は、四か月間の、福岡公演がありました。そのコースは、九月『甘木温泉センター』。十月『若戸スポール』十一月『久留米リバーサイドパレス』。

十二月『犀川温泉センター』。であった。

私は、小躍りして喜んだ。早速、父ちゃんに電話をした。父ちゃんは喜んでくれました。

親不孝して飛び出した私を、許してくれたのである。私が、役者になっていたのを喜んだのである。

昔、父ちゃんは 『ちゃんぽん組・五九郎座』という『久留米にわか』の一座を持っていたのである。

久留米リバーサイド公演の折は、『暁住宅』の住人、三十名と共に、見に来てくれたものです。

父ちゃんが風呂場で、「今日の芝居はどうだった…」と聞くと、「いやぁ良かった。市川喜章も良かったが、三咲てつやが良かった ばい…」。

その上、「お前が一番よかったぞ…」と言い出す始末で、正に、『親馬鹿かぼちゃ』とは、この事ですネ。私は、犀川温泉でも作詞作曲した曲があります。

それが、この曲。『犀川の夜』です。

一、三月前には、    甘木の町で…、

  昨日久留米で、   見たという…、

風が冷たい     十二月…、 

  人の噂じゃ、    この町に…、

  いるというのを、  聞いてきた…、

  逢って泣きたい、  犀川の夜…。

二、古い家並み、    心に沁みる…、

  旅の一夜を、    温泉の…、

  淡い湯の香に、   身を包む…、

  恵比寿神社の、   みくじ札…、

  祈る思いの、    恋ごころ…、、    

  一目逢いたい、   犀川の夜…。

三、海の風なら、    行橋あたり…、

  川の匂いは、    犀川の…、

  街の明かりが、   灯る頃…、

  泣きたいくらい、  淋しくて…、

  一人歩きの、    裏通り…、

  霧に霞んだ、    犀川の夜…。

【★てつやの五行ポエム…。】

明治の石松と、言っていい程のお人よし…、

あれほど親不孝しても…、

再会すれば、喜ぶ父ちゃん…、

親馬鹿 かほちゃの、親かぼちゃ…、

今は亡き、父ちゃんが大好きだ…。

船生かぶき村 かわら版 令和5年3月21日

今日のかわら版は、私・三咲てつやの、流し時代の思い出が満載です。遠い、遠い、遥かに遠い昔の思い出です。笑わないで下さいネ…。

【★てつや、流し時代の思い出②…。】

 私は日々。流して歩きながら、ポリシーでもある。

作詞作曲も手がけました。ここで、その二・三曲を紹介致します。先ずは、この曲から…、

『新川育ち』

一、一年経ったら、   迎えに来ると…、

  貴方は東京に、   行ったけど…、

  油ケ淵の、     花あやめ…、

  咲いて散っても、  ただ一人…、 

  待っているのよ、  新川育ち…。

二、お稽古帰りの、   住吉橋で…、

  浴衣姿で、     歩いてた…、

  貴方に声を、    掛けられて

  あれから一年、   もう二年…、 

  三年過ぎます、   新川育ち…。

三、私が生まれて、   初めて知った…、

  愛することの、   幸せを…、

  淡い湯の香の、   衣浦で…、

  抱いて抱かれた、  嬉しさが…、

  今も消えない、   新川育ち…。

『新川恋歌』、 

一、風、そよ吹く、   みどりの夜風…、

  月、きれいな、恋の月、 新川町よ…、  

  チョッとあそこに、 寄ろうかな…、  

  今日も。あの娘は、 来てるかな…、

  逢ってみたいわサ、 

  でもサ、      でも、逢えるかな…。

二、雨、静かに、    真珠の小雨…、

  花、濡れてる、ネオン花、新川町よ…、

  今日もあそこに、  行こうかな…、

  ママと一杯、    やろうかな…、

  妻をのろけてサ、  

  でもサ、      でも、照れちゃうな…。

三、酒、グラスに、    溢れるお酒…、

  胸、沁みるよ、未練酒、新川町よ…、

  酒はあそこが、    楽しいネ…、

  五臓六腑を、     暖める…、

  酔っちゃ駄目かいナ

  でもサ、       でも、酔いたいな…。

『旅役者、西から東』

一、筑後の流れ、     西に見て…、

  山の東に、      月が出る…、

絣の町の、      ふるさとを…、

  捨てて十年、     ひと昔…、

二、芸の心を、      知り染めた…、

  伊予の松山、     奥道後…、

  指折り月日、     数えれば…、

  三年過ぎた、     頃だった…。

三、松江湯の町、     玉造…、

  粋な芸者の、     爪弾きに…、

  ホロリよろけた、   石畳…、

  恋もしました、    人並みに…。

四、あの娘、お嫁に、   行ったとか…、 

  ふるさと便り、    風便り…、

過ぎた月日を、    数えれば…、

六年過ぎた、     頃だった…。

五、魚津・妙高、     上山田…、

  名古屋・豊橋、    吉良港…、

  旅の役者は、     西東…、

  いつか忘れた、    国訛り…。

六、テケテン、テケテン、 ふれ太鼓…

  やっと掴んだ、    撥さばき…、

  師匠が認めて、    くれたのは…、

  九年が過ぎた、    頃だった…。

『解説』 

美国舞踊劇団で公演していた『吉良町』は、私が、後に『流し暮らし』をした町となった。

流しと作詞作曲の両方を経験出来た。コンビの『神谷作造』先輩は大恩人です…。

【★てつやの五行ポエム…。】

三年間の演歌師ぐらし…、

碧南市の新川町…、

夜の居酒屋で知り合った人々…、

人情溢れる、御客様…、

歌は世につれ、世は歌につれ…。

船生かぶき村 かわら版 令和5年3月20日

今朝、私の粗相から、三月十七日以降の『船生かぶき村・かわら版』が消えてしまい、私は慌てて、三月二十日からの『かわら版』を書いています。というのは、本日までの『かわら版』は、滞る事なく、既に配っているからです

これからも、間違いなく配ります。御安心を…。

【★てつや、修業時代の思い出…。】

『美国舞踊劇団時代②』

 その頃、富山県魚津市に『金太郎温泉』という、北陸屈指のヘルスセンターがありました。

その金太郎温泉で、私にとって忘れられない思い出があります。私が収集していたレコードの中に、

浪曲家『真山一郎』の『日本の母』という外題がありある母が、交通事故で息子を失います。その加害者が母の家に謝りに行き、亡くなった息子さんに代わって私に親孝行をさせて下さい。という物語です。

 私は、この浪曲を芝居にしましょうと進言しました。

大夫元の国本純三郎先生も、それは面白いと、舞台化する事になり。私は早速、魚津警察署を訪ね、署長に直談判、魚津警察署の後援を取り付け、数々の交通事故の写真をお借りして、金太郎温泉の廊下に貼ったのである。公演当日朝から地元の、『北國新聞』『北日本新聞』『北陸中日新聞』。また、全国新聞の、『朝日新聞』『毎日新聞『読売新聞』の 記者が取材に入りました。これには私も国本先も、驚いたのは言うまでもないが、それには裏があって魚津警察署の山下署長が、全新聞社に電話を掛けて下さっていたのです。客は鈴なり、大入り満員、金太郎温泉・始まって以来の記録だったのです。

国本先生は、金太郎温泉からだけではなく、『魚津警察署からも感謝状を頂いて大感激。

「私は、悪い事で警察に世話になった事はあるが感謝状を貰うなんて思わなかった…」 

たった一枚のレコード『浪曲・日本の母』にこれほどの、幸せを頂戴するとは、あぁ有難や、有難やの一説でした…。

【★てつや、流し時代の思い出…。】

 私は、日に日に上達するアコーディオンの腕を、試したくなり、『演歌師』の道を求め、美国劇団をやめて、『流しの世界』に飛び込みました。

『吉良壮』の近くにある西尾市でした。私は先ずこの地区・西尾市・吉良町・蒲郡市・碧南市を束ねる『白ばら音楽事務所』を訪ねました。事務所の社長は榊原氏。この辺りは吉良温泉・形原温泉・西浦温泉と温泉が多く、私は、西尾市・碧南市の、夜の街を流して歩き、時には、ホテルのバンドの一員としてクラブ演奏をしたり、お座敷廻りをする事もありました。私が、白ばら音楽の社長から、与えられた縄張りは、碧南市の新川町地区でした。

そして『神谷作造』という大先輩をコンビとして付けてくれました。神谷先輩が、ギター、私が、アコーディオンのコンビ誕生です。

榊原社長は、私の教育係として、神谷先輩を付けてくれた節があります。一人で流して歩くのを『ヤリ』と言います。二人で流すのを『つがい』とこの『つがい』には色々あります。

一人が、楽器を弾いて、一人が唄うのが、オーソドックスで、唄う方が『雄鳥』で、楽器しか弾かない人を 『雌鶏』と言います。私と神谷先輩は、二人とも楽器を弾いて、歌を唄うので雄鶏コンビです。

私は、半年後には一人で歩けるようになり、『ヤリ』で歩ける様になりました。

一人で歩ける様になった私ですが、面白い話があります。ある『居酒屋』で流していると、御客さんから、「兄ちゃん。『俵星玄蕃』は唄えるか、唄ったら一万円やるよ…」と言われ、私は、〆(しめ)た…」と思いました。

『俵星玄蕃』は、中学生の頃から唄っていたからです。続いて『赤垣源蔵、徳利の別れ』のリクエスト、此れも唄って、二万円ゲット…。

【★てつやの五行ポエム…。】

『芸は身を助く』、言われ続けた名言である…、

歌は芝居の様に…、芝居は、唄う様に…、

唄の上達は、芝居の上達に繋がる…、

好きこそ、ものの上手なり…、

私を助ける、長編歌謡浪曲…。

船生かぶき村 かわら版 令和5年3月17日

【★かぶき村に話題有り…。】

 今朝は午前十五分に目が覚める。

私は、目が覚めると、まず窓を見ます。窓が明るいか暗いかで、時刻を確認するのです。

チョッと早いかなと思いましたが、二度寝は、しませんでした。二度寝すると、また十時過ぎまで

寝るかもしれないと思ったからです…。

【★かぶき村を愛した故人列伝…。】

 このコーナーの最後は、私の父ちゃん。

私の父ちゃんは、平成元年に亡くなりましたから、船生かぶき村を愛した故人とは言えませんが、『劇団暁』を、愛したのには真違い有りません。

それは、私が劇団旗揚げした時に、電話で、「父ちゃん、俺。劇団旗揚げをしたよ…」と言いその時の父ちゃんは、「そうか、頑張ったな…」と喜んでくれました。そして私が、「劇団の名前は、『劇団暁』と、名付けたと言うと、今度は涙声で、「そうか、『劇団暁』と付けたか…」と本当に、喜んでくれました。その訳はこうです。

私の父ちゃんは、福岡県・久留米市の、『暁住宅』に、住んでいました。しかも、『暁住宅』と名付けたのが、父ちゃんだったからです。

昭和三十年頃から呼ばれた『暁住宅』の『暁』は『劇団暁』が、存続する限り続く事でしょう。

 最後に私の、母ちゃんについては述べます。母ちゃんは、昭和三十一年。父『園田恭造』が、京都の『舞鶴港』にシベリアから引き揚げて来た時、一緒に迎えに行ったのが母ちゃんでした…。

【★てつやの五行ポエム…。】

二歳の私を、満州から連れて帰ってくれたのは…、

父ちゃんと母ちゃん、本当は私の…、

祖父(じい)ちゃんと、祖母(ばあ)ちゃん…、

爺ちゃんは、人生の恩師…、

婆ちゃんは、心の支え…

【★それぞれの人生劇場…。】

 尾崎四郎の原作で『人生劇場』という作品があります。人それぞれ、私の劇場、貴方の劇場があると思います。私が歩いた道が『私の人生劇場』。

貴方が歩い道が『貴方の人生劇場』。

それは何も、男だけの世界ではなく、女の世界でも『女の人生劇場』があると思います。

例えば、金持ちに生まれても、財産を守る為の、資金繰りや、遺産相続の争い等で、骨肉の争いをする様は非常で、よくドラマ化されています。

又、貧乏人の家に生まれても、親を助け、家族を守る親子愛、兄弟愛、貧乏人同士が助け合う姿は感動を覚えます…。

昔、『名もなく貧しく美しく…』という、ドラマがありましたが、何の何がしという、肩書が無くても強く正しく生きて行く人生は、素晴らしいと思います。

貧乏暮らしの中でも、助け合う精神は称賛され、また、貧乏がゆえに、人を騙し、人を殺す、今の流行(はやり)の『殺人強盗』など決して、許せるものではありません。

 話は、冒頭にもどりますが、私は『私の、人生劇場』貴方は『貴方の人生劇場』

何も、人に褒められなくてもいい。自分で、自分を褒められるような人生を歩む事、もう一つは、父から、母から、「良くやった…」と言って貰える人生を、送りたいものである。

【★作詞作曲は、私の癒し…。】

 私がまだ中学・高校生だった頃、船村先生の作曲、別れの一本杉。ひばりの佐渡情。なみだ船。東京だよおっ母さん。哀愁波止場など、ヒット曲が巷に流れていました。哀愁切々としたメロディーが頭から離れなかった。いつか私も、何時か、そんな歌が作れるようになりたいと思いました。

そんな私が、船村徹先生の住む栃木にいるとは、不思議な御縁に感じています。

ある時、尊敬船村先生から電話があり、「三咲さん。私の故郷に『劇場』を作ってくれて有難うございます…」との言葉を頂き、この上のない感動でした…。   (つづく)

船生かぶき村 かわら版 令和5年3月15日

【★かぶき村に話題有り…。】

『船生かぶき村を愛した故人列伝』

「茂呂千代吉氏」編。

 茂呂のお父さんと『劇団暁』の皆んなが慕っていた『茂呂千代吉』氏も、船生かぶき村の創生期を、支えて下さった一人です。お父さんは、旧喜連川町の人で、相棒の相田さんと一緒に知り合いました。

お二人は共に、喜連川の『鹿子畑』という部落に住んでいて、その部落の祭礼には、毎年、我が劇団の

芝居と舞踊を招いてくれました。ある時、夏ちゃんのファンだった茂呂のお父さんが、夏樹にスーツを作ってくれることになり、相田のお父さんが、「じやぁ、俺が春ちゃんに、スーツを、作ってやろうという事で、夏樹・春樹の兄弟は、生まれて初めて、スーツを身に纏ったのです。

しかし、百まで生きると豪語していた茂呂のお父さんは、すでに、この世の人ではありません…。    

『船生かぶき村を愛した故人列伝』

『横井秀次氏』編。

 横井秀次。この人との出会いは、『船生かぶき村』創立以前に遡(さかのぼり)ます。あれは、夏ちゃん

春ちゃんが入団して四ケ月目。夏樹が、小学三年生。春樹が、小学一年生の時。富山県・魚津市の金太郎温泉での、巡業をしていた時です。秀次さんは、週に二・三度は、見に来てくれました。来ると必ず、座員全員に、チョコレートパフェを差し入れてくれ、皆んなが、「チョコレートパフェの兄さんが来た…」と叫んでいました。その時、横井さんが言った言葉が忘れられません。「座長は、よっぽど。夏ちゃん、春ちゃんが可愛いのでしょうネ。二人を見る目が、慈愛に満ちています…」の言葉でした。

今にして思えば、成程、そうだったかも知れません。後に魚津市で、私が肺気胸を患って、入院した時も、毎日の様に、見舞いに来てくれて、私が『船生かぶき村』をオープンした時はイの一番に、従業員として馳せ参じてくれました…。

【★てつや、石井友喜を語る…。】

       作詞作曲・三咲てつや。

          唄・石井 友喜。

『下野ふれ愛劇場』

一、旅の…、

  旅の役者が、   思いを込めて…、ソレ

  建てた皆んなの  夢劇場…、

  出逢い、ふれ愛  求めて集う、ソレ、ソレソレ

  ここは下野    塩谷町…、

  水の船生の    かぶき村…。

二、揃うた…、

  揃た、揃たよ     役者が揃うた…、ソレ、

  揃た役者は    日本一…、

  夏樹、春樹や  きよ美やさつき、ソレ、ソレソ

  見とり選り取り  芸達者…、

  それが船生の   かぶき村…。

三、見たか…、

  見たか聞いたか  下野自慢…、ソレ

  それが栃木の   新名所…、

  尾張名古屋は  城で持つが…、ソレ ソレソレ

  かぶき村なら   客で持つ…、

  おらが船生の   かぶき村…。

四、笑顔…、

  笑顔千両の    名物女将…、ソレ

  そんな笑顔に   誘われて…、

  客は鈴なり、  舞台は萌えてソレ、ソレソレ

  唄や踊りの    花が咲く…、

  ここは船生の   かぶき村…。

『解説』。 船生かぶき村のカラオケ大会は、石井友喜、ふぶき梨花・さつき・きよ美の

『下野ふれあい劇場』の、唄い手が支えてきた。いや、歌好き、カラオケ好きも、支えている、

創立二十八年を迎えられたのは、この人達があったからである…。

【★てつやの五行ポエム…。】

茂呂のお父さんも…、

チョコレートパフェの横井さんも…、

劇団暁を愛し…、

夏樹・春樹を可愛がってくれた…、

思いは巡る、走馬燈…。

船生かぶき村 かわら版 令和5年3月14日

【★かぶき村に話題有り…。】

『船生かぶき村を愛した故人列伝』

★『栃木科研工業会長、吉原広氏』編。

 ある時。ふと、『船生かぶき村』の芝居を見ていて、『劇団暁』の芝居の虜になって、私に、「弟子にしてくれ…」と言われました。見れば、かなりの高齢で、私より、一回りも年寄り上で、これは無理だと思いお断りしたのですが、その熱意に負けて、入門を許可しました。

芸名は、本名が吉原広ですから、『三咲広太郎』と名付けました。会長は、『栃木科研工業』で、七十名の従業員を持つ会社を有し、他に『ハウスマヌカン』という別会社も経営される立派な方です。

 三咲広太郎の、主な出演作品。

一、『浅間の鴉』の、『村上兵衛』、

二、『石松・焔魔堂の最後』の、清水次郎長。

三、『少年白虎隊』の、『家老・西郷頼母』

四、『梅川・忠兵衛』の、讃岐の御大尽。

  梅川忠兵衛の背景幕は、『栃木科研』内の『歌謡ホール』で描きました。

  でかい矢板市文化会館の大きな背景を描くのは並大抵の苦労ではなかった記憶があります…。

五、𠮷原広氏は、亡くなられるまで、船生かぶき村の『後援会長』として頑張っておられました。

  中小企業の社長でありながら、死ぬまで、私の弟子としての姿勢を忘れず。この三咲てつやを慕ってくれた姿に感謝して、なぁ…む…。

【★てつやの五行ポエム…。】

三味線・尺八・笛・太鼓・鼻笛…、

五つの楽器を操る名人藝…、

その上、大形バスの運転手…、

かぶき村にとって、貴重な戦力…、

定年退職は、如何にも残念…。

【★てつや、石井友喜を語る…。】

       作詞作曲・三咲てつや。

              唄・山田   昇。

『笑民浮かれ節』

一、うふふ、あはは    げらげらうふふ・・・、

  ウフフ、アハハ    ゲラゲラウフフ…、

  三味線、尺八     笛、太鼓…、

  アコも弾けます    ギターも弾ける…、

  たまにゃ、風邪薬引く ホラも吹く…、

うふそしてふ、あはは    ウフフ、アハハ…、

げらげら、げらげら  げらげら、うふふ…、

  ゲラゲラ、ゲラゲラ  ゲラゲラ、ウフフ…、

  これが笑民      浮かれ節…。

二、うふふ、あはは    げらげら、うふふ…、

  ウフフ、アハハ    ゲラゲラ、ウフフ…、

  笑う門には、     福来る

  バブル、リストラ   オケラの財布…、

  嫌な世の中      うち忘れ…、

  うふふ、あはは    ウフフ、アハハ…、

  げらげら、げらげら  ゲラゲラ、ウフフ…、

  うふふ、あはは    ゲラゲラ、ウフフ…、

  これが笑民      浮かれ節…。

三、うふふ、あはは    げらげらうふふ…、

  ウフフ、アハハ    ゲラゲラ、ウフフ…、

  踊る阿呆に      見る阿呆…、

  四角四面の、     踊りも良いが…、

  肩の凝らない、    安木節…、

  うふふ、あはは、   ウフフ、アハハ…、 

  げらげら、げらげら、 ゲラゲラ、ウフフ…、

  うふふ、あはは    ゲラゲラ、ウフフ…、

  これが笑民、     浮かれ節…。

『解説』この曲を唄っているのは『山田 昇』ですが、

 その昔、『石井友喜』先生と、『山田昇』先生は塩原温泉のホテルを、コンビで『お笑い民謡ショー』として歩いていました。 最初は、石井先生だけ『船生かぶき村』の専属契約致しましたが、後に、石井・山田のコンビで『お笑い民謡ショー』を、やってもらう事に致しました。山田先生は、大型バスの二種免許を持っている事から、かぶき村の、専属ドライバーとして、定年まで活躍致しました…。

船生かぶき村 かわら版 令和5年3月13日

【★かぶき村に話題有り…。】

『船生かぶき村を愛した故人列伝』

★『藤田勝氏の巻』

 大島社長は、私的に『長峰会』という組織を纏めておられたが、藤田氏は、その長峰会の、会員であった。藤田さんは、逞しい風貌は裏腹に、実に心優しい方で、私は、そんな藤田さんを、 兄とも慕い。藤田さんも、私を弟の様に接して頂きました。例えば、『船生かぶき村』の第一回・慰安旅行、第二回・慰安旅行、第三回慰安旅行に参加してくれました。

又、沢竜二の全国座長大会や、全国子役大会にも来て下さいました。また、有楽町のソミドホールで開催された『立川談志ひとり会』にも、藤田さんの姿がありました。それ程、優しかった藤田さんは、もうこの世の人ではありません…。

『かぶき村を愛した故人列伝・番外編』

 船生かぶき村を愛した故人と言えば、忘れてはならない人が一人います。

あの立川談志師匠が、その人である。平成六年八月三十一日の『安田生命ホール』での落語と大衆演劇のコラボ公演の折、談志師匠が 入館した時、「三咲さんは来ていますか、三咲さん」と仰って、私が「はい。来ております」と返事すると安堵した御様子でした。公演の後、私が、「今年の十一月十一日に『船生かぶき村』という劇場をオープン致します」と申し上げると、「そうですか。やっぱり、三咲さんは、私が思っていたような人だ。」と言って「杮落しには、私も必ず行きます…」と、嬉しい返事を頂きました。談志師匠は、杮落しの時には読売新聞の記者の方と御一緒に来られ、三周年、五周年の節目には『フジテレビ』のカメラが入り、全国放送も、して頂きました。

談志師匠は、『かぶき村』を愛したと言うより、三咲てつやを可愛がってくれたのかも知れません。

実に、有難い話です…。

【★てつや、石井友喜を語る…。】

        作詞作曲・三咲てつや。

           唄・石井 友喜。

『海華亭小唄』

一、はぁ~

  月は山陰      松の上…、

  赤い夕陽の     日本海…、

  波に浮かんだ    佐渡島…、

  田ノ浦、田ノ浦   海辺のホテル…、

風呂良い、酒良い  肴良い…、

  よいよい、程よい  海華亭…。

二、はぁ~

  腕が自慢の     板前さん…、

  笑顔あふれる    仲居さん…、

  並ぶ御膳の     色の良さ…、

浜風、磯風     海辺のホテル…、  

  海の味覚に     舌鼓

  ほんとに嬉しい   海華亭…。

三、はぁ~

  夏は浜辺の     人の波…、

  冬は山並み     雪の波…、

春夏秋冬      客の波…、

  さざ波 荒波    海辺のホテル…、

  風呂良い、酒良い  肴良い…、

  よいよい、程よい  海華亭…。

『解説』この歌詞の二番にある

『浜風』・『磯風』とあるのは、客室の名前です。『さざ波』は女湯。『荒波』は男湯の名前です。民謡の『佐渡おけさ』では、雪の新潟と言いますが意外と、『海華亭かわい』では雪が少ないのです。何故かと言うと、佐渡島が壁、になって寒気が田ノ浦海岸を超えて、新潟の内陸部に、多くの雪を降らせているからです。

即ち、田ノ浦海岸や寺泊の雪は意外と少ないのです…。

【★てつやの五行ポエム…。】

新潟県・西蒲原郡・田ノ浦海岸…、

海華亭かわい…、

十六年。連続公演を果たした所…、

瞼閉じれば…、

日本海に浮かぶ、佐渡島が懐かしい…