船生かぶき村 かわら版 令和5年4月9日

【★船生かぶき村時代・初期。】

『船生かぶき村・創立十周年・特別企画』

【★少年白虎隊に寄せて…。】

 この、『矢板市文化会館』で開催された。『少年白虎隊』は、これまでの『芝居巡礼』の中でも記憶に残る作品として、忘れられない芝居でした。

そのパンフレットをめくると、『きよ美座長』『夏樹座長』『春樹座長』の挨拶文は、彼らの意気込みが感じ取れます。

では早速、その『挨拶文』を読んでみましょう。

先ず、夏樹座長の挨拶文です。

『御挨拶。兄座長・三咲夏樹』。

 師走の、お忙しい中、御来場頂きまして、厚く御礼申し上げます。本日の芝居は『少年白虎隊』です。この脚本を読んで感動致しました。自分の幸せや、快楽のために、『オレオレ詐欺』で、お年寄りを騙す人。借りてもいない金を『架空請求』する人。偽札を偽造する中学生。親の年金を無断で引き下ろす者や、親を鉄アレイで殴り殺す馬鹿者。世の中、腐りきっています。そんな時、清々しい『白虎隊』の精神に触れる事が出来て幸せです。親や国の為に命を落とすというのは、時代遅れかも知れませんが、その精神は、尊いとおもいます。とにかく、一生懸命に演じますので、しっかりと御楽しみ下さいませ…。

続いて、春樹座長の挨拶文です。

『御挨拶・弟座長・三咲春樹』。

 『白虎隊』の心に、感動しました。感動のあまりに私は、この芝居で、関東・東北・北海道のツアー公演を、先生に進言しました。それほど、気に入った芝居です。とにかく、大勢の人に見て頂きたいのです。それが実現すると、月に三日程度、『船生かぶき村』を休む事になるのが気がかりですが、何はともあれ、本日一日。ごゆっくりと御楽しみ下さいネ。舞踊ショーの最後には、島根県に伝わる『無形文化財』の『大蛇』を使った『龍神ショー』も

あります…。

つづいて、

『御挨拶・二代目座長・三咲きよ美』。 

 此度は、大勢の御来場を頂きまして、誠に有難うございます。本日は、私達の師匠・『三咲てつや』が書き下ろした。『少年白虎隊』を、御覧戴く事になりました。私自身。最高の脚本に巡り合えて幸せです。子供が親を殺す時代に、親の為に、親為に故郷の為に、命を捧げる少年達が居た事を、伝えられるのは、役者として最高の幸せです。それも、遠い昔の事ではなく、わずか百五十年前の日本に本当にあった事を、皆様に伝えられるのは、役者の使命として、熱演する覚悟です。それが、『白虎隊隊士』への供養だと思います。どうか最後まで、ごゆっくりと、お楽しみ下さいませ…。

『御挨拶・船生かぶき村・女将・ふぶき梨花』。

 『船生かぶき村』がオープンした時。春ちゃんは小学六年生。夏ちゃんが中学二年生でした。

その春ちゃんが二十一歳。夏ちゃんが二十四歳。こんなに成長して、きよ美ちゃんも、今では二代目座長として活躍しております『光陰矢の如し』とは言いますが、過ぎ去った月日はあっという間でした。ほかに、『飛竜貴』もいます。

『三咲大樹』もいます。『さつき・めぐみ・和美』もいます。その他『国本一夫・峰純子』もいます。

『劇団暁』総出演の晴れ舞台。本日一日、存分に御堪能下さいませ。

『御挨拶・座長・三咲てつや』。

 私が、ふと手にした小説全集の中に、この『少年白虎隊』がありました。この作品を芝居にしようと、台本を書いていて、涙が溢れ出ました。

まだ、芝居をする前から涙が止まらないという事は必ず、成功すると思った瞬間でした。

さぁ、私の自信作『少年白虎隊』の開演です…。

【★てつやの五行ポエム…。】

会津の『白虎隊』がそうだった…、

太平洋戦争の『神風特攻隊』がそうだった…、

親のため、故郷の為、少年達が死んでいった…、

ただの、美談では済ませられない…、

本当に、気の毒な死であった…。(合掌)。

船生かぶき村 かわら版 令和5年4月8日

【★船生かぶき村時代・初期。

 私は、大好きだった父ちゃんが、久留米市の消防団(十三分団)に協力し、自警団を作って頑張っていました。という事で、子供会の皆んなと、力を合わせ。毎晩、祈頭を打ちながら、『夜回り』をしていた記憶があります。そして、町民の一人として、矢板消防署の、防火・防犯・更に交通安全運動に、協力したいと願い出て、スピーカー付きのワゴン車で町回りをする事になりました。私は、役者であることを利用して、私が『水戸黄門』。夏樹・春樹が『助さん・格さん』に扮して、さつきちゃんが『うっかり八兵衛』となり、矢板地区、塩谷地区を、街頭演説致しました。

町ゆく人も、私達の扮装した姿に興味を示し、足を止めて聞いてくれました。矢板警察署の皆さんも喜んでくれたようでした。

それ以上の反応は、『船生かぶき村』って、どんな所だろうと、『かぶき村』の認知度も上がり、以来、『船生かぶき村』の入場者が鰻登り。

思いもよらぬ副産物を勝ち取り、私も、ふぶき梨花も、弟子達も大喜びでした。

この話は、下野新聞にも掲載され、関東の警察に知れ渡り、平成八年九月。埼玉県浦和文化センター。

平成九年十月。茨城県大子警察署。茨城県神栖市。神栖警察署。茨城県水戸市。水戸警察署。

東京都・朝霞警察署。など、立て続けに、キャンペーンを、する事になりました。

『芸は身を助く…』とは、よく言ったもので、古来。言い伝えられた言葉には、『石が浮かんで、木の葉が沈む…』。

この言葉は、「無理が通って。道理が引っ込む…」に、繋がります。

昔の。人は、『人の人情』、『浮世の運命』を。広く、後世の人に伝えています。

『諺(ことわざは)、人生の羅針盤です…。

【★泣虫てつやの、遠い思い出…。】

 私、昭和十八年、十二月九日。満州で生まれ、終戦後、祖国・日本の福岡県久留米市に引き揚げて参ました。母(照子)は、引き揚げ船の中で亡くなり、父(恭造)は、シベリアに抑留されておりました。私は、母方の祖父ちゃん・婆ちゃんに満州から連れ帰って頂きました。

祖父母に育てられた私は、何時もいつも、泣いてばかりいた、泣虫に育っていたものです。

 ある日の朝、祖父ちゃん祖母ちゃんは、目新しい下駄を買ってくれました。私は喜んでその下駄を履いて、学校に行ったのですが、靴を履いて、登校していた友達に笑われて、泣虫の虫が出て、泣き出してしまいました。

学校が終わり、下校した私は、その話を祖父母に話すと、お前は「泣き虫だからなぁ…」と笑いながら、「そんな事で泣くんじゃない。笑う奴には笑わせておけ、お前は、悪い事をしたんじゃない。恥ずかしい事をした訳じゃないんだから、堂々と学校に行きなさい…」と励ましてくれました。

明治生まれの祖父ちゃんは、小学校三年で奉公に出たという苦労人です。

そんな祖父ちゃんの言葉は、一本、筋が通っています。御覧の通り、男としては小さい私ですが今の私より小さい、小柄な祖父ちゃんですが、肝っ玉のでかい、男の中の男です。

幼かった私ですが、祖父ちゃんの武勇伝は何度も見ています。大柄の男性が、小柄で、しかも年寄りの祖父ちゃんに、喧嘩を仕掛けます。

ところが、小柄でも足が速い祖父ちゃんは、難なく、首を捕まえての首投げで、投げ倒す様を何度も見ています。そんな頼もしい姿を見て、気分も高揚した私でした…。

【★てつやの五行ポエム…。】

小柄でも、頼もしかった祖父ちゃん…、

何時も優しい祖母ちゃん…、

そんな、祖父母に育てられた弱虫の私…、

祖父ちゃん・祖母ちゃんには子供がいない…、

孫の、私が子供です…。

船生かぶき村 かわら版 令和5年4月7日

【★船生かぶき村時代・初期。】

 『劇団暁』が平成六年十一月。オープンした時のスタッフは『芸能部』が、座長の三咲てつや。

副座長の『ふぶき梨花』。さつき・めぐみ・和美。夏樹・春樹。きよ美の八人。表周りのスタッフが、厨房に、ふぶき梨花。梨花さんの従妹の伊藤洋子。梨花さんの妹『木下恵美子』。ドライバーは、梨花さんの叔父様『関谷五郎』。伊藤洋子の兄『伊藤義博』。梨花さんの妹の亭主。『木下仁』。考えてみれば、スタッフは、全員梨花さんの、親戚の方ばかりでした。

付け加えて言うと、さつき・めぐみ・和美・きよ美女性組の弟子も、厨房に入って手伝ってくれました。

 面白い話があります。

船生かぶき村がスタートして間もなく、私は、ふぶき梨花さんと遠縁だか、親戚なのだと、いう人が現れて、私が梨花さんに聞くと、「いや、知らない人だ…」言っていたことが、懐かしく、思い出されます。

平成六年十一月から五ケ月後、平成七年三月。

有難い話が舞い込んできました。それは、高根沢町の『阿久津天満宮』に於いて、『劇団暁』の芝居と舞踊を奉納してくれという話であった。しかも、出演料は法外のン十万円というから、正しく有難い話である。

この話は、近頃の『コロナ騒動』が起きるまで、廿年以上続き、感謝感謝のイベントでした。

また、良い話は重なるもので、その年の六月。あの、湯西川温泉の『平家の里』で開催される『平家大祭』への出演依頼があり、これも、十五年以上続いたイベントであった。

この話を持ち込んで下さったのは、春ちゃんを小学校の卒業式に出席するために北海道に迎えに行って下さった。『藤門軌道会長』の、『藤門久様』でした。

正に、感謝に絶えない思い出です…。

【★三咲てつやと六人の弟子。】

 私に、六人の弟子がいる事は、周知の通りですが、夏ちゃん・春ちゃんが弟子入りするまでは一番年下の和美ちゃんを可愛がっていました。

 しかし、九歳の夏樹君・六歳の春樹君が弟子入りしてからは、和美ちゃんより年下の、夏ちゃん・春ちゃんに、可愛がる対象が移りました。

 平成元年一月八日に他界した『父さんの初盆をする為に、福岡公演を選んだ私は、『香椎健康ランド』で出逢った夏樹と春樹。しっかり者の夏樹君はまだしも弟の春樹君は、泣き虫で甘えん坊でした。

当時、大人気を博していた『暴れん坊将軍』になぞらえて、私は、春樹君の事を『甘えん坊将軍』と呼んでいました。二人のデビューは、宇都宮市の『かまぶろ温泉』でしたが、夏樹君は、五木ひろしの『旅烏』で、春樹君は、橋幸夫の『沓掛時次郎』でした。夏樹君はすでに『香椎健康ランド』で踊りを教えていたので、すんなり踊れましたが、春樹君には個人舞踊は無理だと思って、私が、背負って踊りました。二人の衣装は『かまぶろ』の浴衣を着て踊ったという、涙ぐましいデビューでした。デビューの前日。その稽古風景が面白い、春樹君の『甘えん坊将軍』ぶりが発揮されました。

チョッと稽古しては、「喉が渇いた。ジュース呑みたい」暫くして、「喉が渇いた。アイスクリームが食べたい…」。という始末。これには、私も、妻も、大笑いでした。果たして、春ちゃんは覚えているだろうか。あの甘えん坊将軍が、今を時めく『劇団暁』の看板役者とは、驚き、桃ノ木、山椒の木ですよネ。

夏樹・春樹は私の宝、

さつき・めぐみ・和美・きよ美も宝です。

孫弟子の、暁人、隼人、龍人、舞花、鷹人も宝、

愛羅、良羅、憧も宝、

こんなに多くの宝が居て、私は幸せ…。

【★てつやの五行ポエム…。

今は、小さな苗木でも…、

大きくなぁれ、大きくなぁれ…、

真っ直ぐ育つ檜の様に…、

あすなろ、あすなろ…、

天まで伸びる、檜の様に…。

船生かぶき村 かわら版 令和5年4月6日

【★船生かぶき村時代・初期。】

『長峰会会員・藤田勝』氏。

 関東ホンダ・社長の大島照光が、組織していた『長峰会・会員の藤田勝』さんも『船生かぶき村』を助けた救世主に違いありません。強面の風貌からは、想像できない優しい人柄で、私は藤田さんを兄の様に慕い、藤田さんも、私を弟の様に、付き合って下さいました。

さつき・めぐみ・和美・夏樹・春樹・きよ美とは、まるで、自分の甥っ子姪っ子と思っておられる様に可愛がって下さいました。例えば、立川談志師匠が、有楽町の『ソミドホール』で、『談志師匠の一人会を開催した時など、夏樹・春樹さつき・めぐみ・和美・きよ美などの弟子達を連れて観劇したり『沢竜二・子役大会に春ちゃんが出演とした時にも、藤田さんは、大勢で矢板から、バスを仕立てて、応援に駆けつけて下さいました。

『長峰会会員であった、関谷五郎氏』。

 此の時のバスツアーのドライバーを受け持ったのが、『関谷五郎』氏でした。この関谷五郎さんは。ふぶき梨花の叔父様ですが、可愛い姪っ子の為ならと、『立川談志師匠一人会』『座長大会』『子役大会』など、中でも『座長大会』だけでも、三十回。

『立川談志・落語会』『立川志遊・二つ目昇進披露』

『立川志遊・真打昇進披露落語会』など、数え切れないバスツアーは、全てがドライバーは、何時も関谷五郎でした。

それだけではありません。

十五年間続いた、北海道・定山渓温泉の、『ホテル三渓苑』公演のドライバーも『関谷五郎』です。

また、新潟県・西蒲原郡・田ノ浦海岸の『海華亭かわい』は、十七年続いた巡業地です。という事で、そのドライバーの、関谷五郎氏も、『かぶき村』に、協力した一人であると思います…。

【★船生かぶき村時代・初期…。

顧客拡大を図った企画の数々。

 昔からある諺(ことわざ)に、

『稼ぐに追いつく貧乏なし…』とゆう言葉です。

私は、無い知恵を絞って色々のアイデアを駆使し、御客様を集めました。

 先ず、持っていたワゴン車にスピーカーを付けて塩谷町、矢板市、旧今市市、鹿沼市・西那須野町をチラシを配って『キャラバン』です。

次に、夜の街の『居酒屋』『スナック』等に、歌を唄ったり、踊りを踊ったりしながら歩きました。

これは、私の『流し時代』の経験を活かした得意分野です。チケットは売れ、チップを頂き、一石二鳥の成果でした。後に、居酒屋・スナックのママから、私の店でのまたキャンペーンしてくれと、キャンペーンの効果は上々でした。極めつけは、深夜零時から始まる『サパークラブ』でのキャンペーンです。

居酒屋や、スナックのママさん方が、店が終わって疲れを癒す『サパークラブ』です。

私はまだしも、夏樹・春樹の若い男たちは、目の色を変えて頑張りました。

すると、どうでしょう。

『居酒屋・スナック』のママさん達から、おひねりの山でした。

この店は、年中無休でしたから、毎日毎日稼がして頂きました。

本当に有難いキャンペーンでした。

捨てる神あれば拾う神あり。

この言葉は。頑張っている人にだけ、与えられる言葉だと思います。頑張った撫子三姉妹、

夏樹・春樹兄弟・きよ美ちゃん。本当に、有難う…。

【★てつやの五行ポエム…。

稼ぐに追いつく貧乏なし…、

捨てる神あれば拾う神あり…、

冬来たりなば春遠からじ…、

私にとって、諺は…、

人生の、道しるべです…。

船生かぶき村 かわら版 令和5年4月5日

【★船生かぶき村時代・初期…。】

『三人目の救世主・栃木科研会長・吉原広様』。

 吉原会長は、若い頃から芝居っ気があって、奥様との結婚式では、かっつけの鬘(かつら)を被って紋付き袴の旦那様は、文金高島田の奥様と、古式豊かな式を挙げられたと言います。

 芝居好きの会長は、ある日突然『船生かぶき村』を訪れて、私に「弟子にして下さい…」と言われした。見れば、私より一回りほど年上に見えたので、私は言いました。「この世界は、弟子入りは、十代か遅くとも二十代でなければ無理ですよ…」と丁寧に、お断り致しました。それでも、何としてでも弟子になりたいと言われるので、では『かぶき村』の 『後援会長』になって下さいと言いました。

そうすれば『後援会長』が道楽で舞台に出る事になり弟子達も納得すると思ったからです。

 一年後、『かぶき村』の創立一周年記念。

『慰安旅行』を開催。宿泊は『ハワイアンズ』泊り、翌日は、会津白虎隊の聖地。白虎隊隊士の墓参りをさせて頂きました。先ずは『ハワイアンズ』の宴会場では、さすがに後援会長らしく、見事な御挨拶を頂きました。また、墓参りの際、それぞれの隊士の墓の前で、『石田和助』には、この様な謂れがあり。

『篠田義三郎』は、家柄も良く成績優秀にで、二番隊の組長であった事。井深茂太郎は、後に『株式会社・ソニー』の創立に尽力した人であった事など一人一人説明して下さり。歴史に博学な所を、遺憾なく発揮してくれました。

また、『矢板市文化会館』公演の折は、筆頭家老の『西郷頼母』役で出演して頂き、また、三咲春樹主演の『遠州森の石松、焔魔堂の最後』では、『清水次郎長』役で大活躍でした。

 こうして『後援会長・吉原広氏』は『かぶき村』のイベント開催では、社員六十名を引き連れて、何時も、客席を盛り上げてくれました。紛れもなく、

『船生かぶき村』救世主の一人でした…。

【★船生かぶき村時代・初期】

 平成六年十一月十一日。『船生かぶき村』創設の頃。夏ちゃんが九歳。春ちゃんが六歳だった二人は兄の夏樹が、中学二年生。春樹が小学六年生になっていました。かぶき村の窓から見ると、ランドセルを背負って学道を歩く、小学一・二年生の姿を見て、「あぁ、夏ちゃん、春ちゃんと出逢ったのは、こんな年頃だったなぁ…」と感慨にふけっていました。

そうです。平成元年八月に知り合って、六年の歳月が流れていたのです。明くる平成七年三月。春ちゃんの『卒業式』の時、私は、あの救世主「藤門軌道」の、藤門久会長に相談致しました。

その時、春ちゃんは、北海道の『岩内小学校』に通っていたのです。

会長が「じやぁ、私が迎えに行ってやる…」と仰って遠い北海道まで、飛行機で迎えに行って下さいました。

勿論、北海道往復の料金は『藤門会長』が持って下さったのです。その後、私が作詞作曲するのが趣味だと言えば、「じやぁ、私がエレクトーンを買ってやる…」と言って、高価なエレクトーンを買って下さいました。貧乏劇団『劇団暁』。

貧乏所帯の『船生かぶき村』は、一歩ずつ前進する事が出来ました。思えば三人の救世主。

関東ホンタモータースの『大島照光社長』。

藤門軌道の『藤門久会長』。

栃木科研会長の『吉原広会長』。

この方々の、御支援が無かったら創立二十八周年は、迎えられなかったと思います。

 春ちゃんも、生まれて初めて飛行機に乗れて、晴れて、小学校を卒業出来て、本当に幸せ者です。

あの時の感動は、私も、ふぶき梨花にとっても忘れられない思い出になりました。

令和五年四月から、平成七年三月の卒業式を偲んで…。

【★てつやの五行ポエム…。】

私を助けてくれた、三人の救世主…、

関東ホンダの、大島照光社長…、

藤門軌道の、藤門久会長…、

栃木科研の、吉原広会長…、

今尚、感謝の方々です…。

船生かぶき村 かわら版 令和5年4月4日

【★船生かぶき村、オープン…、】

 平成六年八月三十一日。ふぶき梨花の父、『関谷克己』が非業の死を遂げたが、実は、その半年前から『船生かぶき村』の建築は始まっていた。父は、劇場建築の進捗状況を見る為に、毎日の様に、矢板から船生まで来ていました。

その時の父は、『船生かぶき村』完成を楽しみに、また、長い巡業を終えて帰って来る。ふぶき梨花との再会を楽しみしていたに違いない。

 という事で、平成六年十一月十一日にオープン致しましたが、その準備期間を考えて、八月三十一日にしたのでありました。準備期間は、アッという間に過ぎて、ここで、杮(こけら)落しのセレモニーは、

第一日目。地元『合柄橋』の皆様を招待しました。

第二日目。巡業中にお世話になった『贔屓(ひいき)』

の皆様を招待しました。

第三日目。ふぶき梨花の親族・友人を初め。梨花さんの、(小・中・高・短大など)学校時代の皆様を、招待いたしました。

 その第一日目には、落語・立川流家元、談志師匠を御迎えして、三咲てつやとの繋がりを、事細かく 説明しながら、ユーモアを交えての祝辞でした。

三日続いたセレモニー期間は、押すな押すなの大盛況でしたが、次の日からは、毎日毎日、顧客ゼロの日の連続で、気の弱い私は、将来の不安を感じ、身も心も縮んでしまいました。危うし、船生かぶき村…。

【★船生かぶき村、三人の救世主…。】

『関東ホンダモータースの社長・大島照光様』

『藤門軌道の会長・藤門 久様』

『株式会社『栃木科研』会長の吉原 広様』

令和五年の今日まで二十八年間続いた『船生かぶき村』があるのは、この方々なしでは考えられません。三人の方々が、どの様にして『船生かぶき村』を助けて下さったかは、次のコーナーで書かせて頂きます…。

【★三人の、救世主の横顔…。】

『関東ホンタモータース社長・大島照光様』は、ふぶき梨花の親戚筋にあたる人で、矢板市の名士で、自らが組織していた『長峰会』の会員を集めて、自らの、会社の『忘年会』や『新年会』を行い、また、長峰会の『忘年会』や『新年会』。

社長の友人が経営する『川島製作所』の『忘年会・新年会』。『藤田勝土建』の『忘年会』。

大島照光社長の応援は『忘年会・新年会』に限らず『かぶき村』が仕掛けたイベント『桜祭り』『座長大会』『浪曲名人会』『カラオケ大会』など、色々のイベントに、大勢の御客様を向けて下さいました。イベントを開催するたびに、百人以上のお詰めかけ下さるという感激は、今尚、語り草になっています。

『藤門軌道・会長、藤門久様』

 この方の支援が面白い。

ある日の事、突然。会長が私の楽屋に入ってきて、ポンと、二十万円差し出して、「これ、電気代の足しにしな…」と言われました。余りに突然の事で、私が恐縮していると、「遠慮することはない。座長の生き方が好きなんだ。いわば、男が男に惚れたんだから…」と、言われました。それから数日経って、また二十万円を出して、「町内の年寄りを二十人連れて来たから、これで芝居を見せてやってくれ…」と言われるのであった。よく考えると、二十人で二十万円と言えば、一人、一万円の観劇料になるのである。これには、ふぶき梨花も、弟子達も大喜びで、化粧をして、舞台セットをして、大わらわの芝居が始まりました。忘れられない救世主の話は、次回の『船生かぶき村・かわら版』で書かせて頂きます…。

【★てつやの五行ポエム…。】

この世には、『生善説』と『生悪説』があるが…、

私は、『生善説』が好きである…、

だって、赤ん坊が生まれて来た時は…、

みんな、純真無垢で生まれるんだから…、

私は、『生善説』を信じます…。

船生かぶき村 かわら版 令和5年4月3日

【★かぶき村に話題有り…。】

 昨日の『船生かぶき村・かわら版』で、平成元年・一月八日の『父ちゃん』が亡くなった事。

入団から間もない『夏ちゃん・春ちゃん』が、岩手県宮古市の『ホテル近江屋』で、様々な苦難を経験した話を描きましたが、翌年も、子供中心の『劇団暁』は、相変わらずの苦戦を強いられました。

世間からは『子供劇団』それが、とか、『オモチャ劇団』。『ガラクタ劇団』と、笑われていましたが、私は、今に見ていろ、十年経ったら、一門の劇団にして見せると思っていました。そして、その四年後、『船生かぶき村』という、常設劇場を建てたのである。

平成六年十一月十一日の事でした。

創設時のメンバーは、『三咲てつや』と『ふぶき梨花』。『三咲さつき、湊めぐみ、三咲和美』の三姉妹と、『三咲夏樹、三咲春樹』の兄弟。それに『三咲きよ美』の八人です。でも、劇場を建てた後も、三咲も馬鹿な奴だ。あんな所に劇場を建てても一年と持たない。

いや、下手をしたら、半年持たずに潰れるだろうと嘲笑されました。ところが、どうでしょう。

一年持たないとわれていた『船生かぶき村』は、二十八年過ぎた今も、存続しています。

勿論、私も妻も頑張りました。それにも増して、六人の弟子達が頑張りました。

私は弟子達を信じていました。この弟子達と一緒なら絶対に『船生かぶき村』は、潰れないと信じていたのです。私は二十七歳の時、全くの素人から、大衆演劇の世界に飛び込みました。六人の弟子達も皆んな素人、つまり、『劇団暁』は、素人集団の劇団なのです。

『船生かぶき村』オープンの時、『立川談志師匠』がお祝いに駆けつけてくれました。その祝いの言葉が忘れられません。「劇場を建てるのは、金さえあれば出来るが、それを継続することは難しいと仰って、私も、立川一門の弟子達と共に、何かあれば、応援に駆けつけます…」と祝辞を述べて頂きました。

真に有難い、お言葉でした…。

【★談志師匠と船生かぶき村 】

『劇団暁・最後の巡業』

 平成六年七月。劇団暁終焉の舞台は、静岡県袋井市の『袋井ラドン健康センター』でした。

いや。そのつもりでしたが、その日の夜。私達は、東京都西新宿にある『安田生命ホール』で

立川談志師匠との約束で、『安田生命ホール』の『狼劇場』で『立川流』と『大衆演劇』との

コラボ公演を行う事になっていました。

私達は、『三咲てつや』『ふぶき梨花』『三咲さつき』『湊めぐみ』『三咲和美』『三咲夏樹』『三咲春樹』『三咲きよ美』。談志師匠組は、『談志師匠』『ポール牧師匠』『毒蝮三太夫師匠』『ガッツ石松』『沢竜二先生』『参議院議員・上田哲先生』という豪華メンバーでした。

第一部が『劇団暁』の舞踊ショー。

第二部は、『談志師匠』のトークショー。

その終演後、『毒蝮三太夫師匠』が言った言葉が忘れられません。

「いやぁ、本物の大衆演劇だ。素晴らしい…」と、お褒めの言葉でした。

 安田生命ホールでの仕事を終え、私達は一路。

塩谷町の我が家へ帰りました。帰りの、バスの中で私は弟子達に「いやぁ、最後の最後に、良い仕事が出来たなぁ…」と言いました。ところがです。帰ってみると玄関に貼り紙が貼ってありました。『梨花さんの、お父さんが、亡くなられました。すぐに実家へ行って下さい…」と、書いてありました。梨花さんの父、私にとっては、義父が亡くなられたのです。

駆け落ち同様に巡業に出て、今度こそ、親孝行しようと帰った日に、亡くなられるとは事実は小説よりも稀なり、信じられますか、でも、本当の話です…。

【★てつやの五行ポエム…。】

父、関谷克己の死…、

ふぶき梨花は泣いた…、

勿論。私も泣きました…、

梨花さんの、親戚一同も泣いた…、

でも一番、悔しかったのは梨花さんの父です…。

船生かぶき村 かわら版 令和5年4月2日

【★かぶき村に話題有り…。】

 『前号までの『船生かぶき村・かわら版』は、『三咲金太郎』君の、話題を特集致しましたが、実は、『バーデンバーデン』公演の翌月は、愛知県・飛島(とびしま)村の『ヘルス共和国』での公演でした。その『ヘルス共和国』には、三日に一度は顔を見せる『母娘』がいました。

母の名は『小川朝子』。娘の名は、上から順に『小川範子』『小川恵』末娘の『妙子』の三姉妹でした。三人とも、大衆演劇の世界に興味がある様子だったので、劇団暁に入らないかとアタックしました。この時も、説得にあたったのが、『金太郎』君です。晴れて『撫子三姉妹』の誕生です。三人の初舞台は、豊橋市の『豊橋ラドンセンター』でした。その芸名は、顔が、お月様の様に丸いので、『三咲さつき』。本名の恵から『湊めぐみ』。

光ゲンジの諸星和美ファンである妙子に『三咲和美』と名付けました。また、この姉妹には、和夫というお兄ちゃんが居て、この和夫君は、喜劇役者の左とん平に似ていたので、『三咲とん平』と呼び、私と『ふぶき梨花』『三咲金太郎』の三人で出発した『新生劇団暁』は、 てつや・梨花・金太郎・さつき・めぐみ・和美・とん平・夏樹・春樹となり、『老いぼれ劇団』と笑われた劇団は、私が一番の年長者になりました。

【★三咲てつや、最後の弟子…。】

『三咲きよ美・誕生』。

 平成元年八月に弟子入りした、夏樹・春樹に遅れる事、三か月。その年の十一月『劇団暁』は、愛知県・岡崎市・『岡崎健康ランド』での公演でした。

一人の若い娘が、両親と共に私の下に訪ねて来る。家の娘の歌を聞いて下さいと言うので、聞いてみると成程上手い。そこで、即、入門を許可しました。

それが、今の二代目座長『三咲きよ美』でした。いよいよ、若返りが進む『劇団暁』です…。

【★劇団暁の巡業はつづく③…。】

 平成元年一月は、私にとって忘れる事のない、辛い、悲しい月でした。我が『劇団暁』は、埼玉県・妻沼町の『妻沼ラドンセンター』と、岩手県宮古市の『ホテル近江屋』の二か所の公演でした。

といっても、ダブルブッキングではないのです。

大衆演劇では、前年度の『ホテル近江屋』公演で、「また、近いうちの再開を…」と挨拶するのですが、ホテル側では、また来年も公演すると、早合点してポスターまで作ったのだから、必ず公演してくれ…」となり、こんな事になりました。

さて、妻沼ラドンセンターは、私が座長で、さつき・和美・とん平・きよ美に、ゲストに浅草軽演劇で鳴らした『沢田健』。大衆演劇のベテラン『東千之助』をゲストに迎えたメンバーでした。

一方の『ホテル近江屋』は、ふぶき梨花を座長に、夏樹・春樹・千秋と大月好太郎・一邑紅晶ら九人のメンバーでした。幹部の二人に、こっぴどく扱(しご)かれたらしいが、そんな時、私の『楽屋ぐらし』『てつや太鼓』を聞いて、萎れた気分を晴らしていたと聞いています。春ちゃんがブランコから落ちて、口元が腫れた時、どうしても舞台に出て貰いたいと化粧を施しながら、「ごめんネ…」と泣いたと言っていました。ところが。我が故郷・久留米では、最愛の父ちゃん『小川始』が亡くなったのです。私を満州から連れて帰り、貧乏のどん底の中、私を『大学』まで行かせてくれた父ちゃんです。

いや、本当は祖父(じい)ちゃんが死んだのです。

私は、急いで岩手県宮古市の『ホテル近江屋』から故郷久留米に帰省しましたが、葬儀には間に合いませんでした。こここで訂正があります。二年連続の『ホテル近江屋』公演でしたので春ちゃんがブランコから落ちたのは前の年で、父ちゃんが死んだのが次の年でした…。

【★てつやの五行ポエム…。】

私を、満州から連れ帰ってくれた父ちゃん…、

貧乏のどん底でも…、

福岡大学に入れてくれた父ちゃん…、

劇団旗揚げを喜んでくれた父ちゃん…、

日本一、いや世界一の父ちゃんだった…。

船生かぶき村 かわら版 令和5年4月1日

【★かぶき村に話題有り…。】

 昭和六十二年四月。新潟ラドンセンターで知り合った『昆金 正』君の初舞台は、富山県・魚津市の『金太郎温泉』でしたので、その風貌と組み合わせ『三咲金太郎』と名付けました。

『老いぼれ劇団』と笑われていた『劇団暁』も、人身を一新した『新生劇団暁』は、私と『ふぶき梨花』『金太郎君』の、三人での『弱小劇団』となりました。

その年の十一月。我が『劇団暁』は、千葉県勝浦市の『勝浦パーク』での公演でした。この『勝浦パーク』で、あの『楽屋ぐらし』『てつや太鼓』『役者冥利』『雪舞い峠』が、ビクターレコードから発売されることになりました。思えば『旗揚げ』時に出来ていた曲が、四年後、やっと日の目を見る事になったのであります。この『勝浦パーク』で面白いエピソードがある。私と、ふぶき梨花と、金太郎君の三人で、第一部『舞踊劇』で一時間。

第二部。『歌謡ショー』で一時間。やったものです。中でも、第一部の『舞踊劇』が大変でした。

私は、『浪人』『火消しの纏い持ち』『御隠居さん』『流しの哲っちゃん』。ふぶき梨花は『唄好きの、屋台の娘』金太郎君が体格を生かして『相撲取り』唄自慢の『町娘』また、リュックを背負って、おにぎりを喰らう『山下清』。等と、舞台を駆けずり回り、てんやわんやの大騒ぎ。その度に、衣装を着替えるので、舞台の上手・下手は脱いだ衣装の山になりました。たった三人の弱小劇団でしたが、必死に頑張っていた頃の、今尚、忘れられない、思い出の一ページでした…。

【★てつやの五行ポエム…。】

私と『ふぶき梨花』。『金太郎君』の三人だけ…、

『乗り込み』と『打ち上げ』…、

衣装・かつら・機材を運ぶのも三人…、

思い出しても、辛かったとは思わない…、

この辛さが、明日の幸せへの道だから…。

【★劇団暁の巡業はつづく…。】

 昭和六十三年三月。『劇団暁』は、浜松市の『バーデンバーデン』での公演であった。

公演が終わり、夜になると、私達は、出来上がった。『役者冥利』『雪舞い峠』『楽屋ぐらし』『てつや太鼓』のキャンペーンに歩きました。私は『着流し』。

ふぶき梨花は『花魁道中』の姿で、金太郎君は、カバン持ちです。三人で、屋台が並ぶ居酒屋を歩きました。私は、屋台の女将さんに、「この姿でキャンペーンしますから、二千円セットで御客様を集めて下さい…」と、お願い致しました。さて、屋台の暖簾をくぐると客席は満席です。

それも そうでしょう。高いぽっくりを 履いて、天井に届かんばかりの、八の字歩きで入店するのですから。やんや やんやの、大騒ぎです。

持って行ったテープは、すぐに売り切れ、稼ぎの一割をやると、連れて行った金太郎君でも一万円くらいはあったと思います。

【★劇団暁の巡業はつづく②…。】

 昭和六十二年四月、『新潟ラドン』で知り合って、その年の十一月。千葉県勝浦市の『勝浦パーク』でてんやわんやの、早変わりで頑張って、浜松市の『バーデンバーデン』でも頑張った金太郎君。

平成元年八月。福岡の『香椎健康ランド』で、大手柄を立ててくれました。それが、なんと、あの、夏樹座長と春樹座長をスカウトしてくれたのです。今を時めく夏樹君が小学三年で九歳。

春樹君が、小学一年の六歳だった頃です。ですから、金太郎君は、夏樹君・春樹君と、『劇団暁』の縁を結んだ、愛のキューピットなのです。

その金太郎君は、金太郎君の、お父さんと三年経ったら、実家に帰して下さいという条件でしたから、残念ですが、今では座員ではありません…。

【★てつやの五行ポエム②…。】

三年間の約束で…、

ほんとに短い、弟子・師匠…、

忘れられない、金太郎君…、

こんなに短い、足跡でも…、

その功績は、永遠です…。

船生かぶき村 かわら版 令和5年3月29日

【★かぶき村に話題有り…。】

 始まりかあれば、終わりがある。

朝が来れば、夜が来る。

初日が来れば、千秋楽が来る。

今日は、妃咲劇団さんの千秋楽である。

今日で、妃咲劇団の舞台も見納めです。

令和五年三月公演、皆さんには、本当に頑張って頂きました。御名残り惜しいけれど、これが 旅役者の宿命です。私も『旅役者』でした。ですから役者の気持ちと、『劇場主』の、気持ちを味わって来ました。

出逢いと別れの辛さが解ります。

何時の日か、再開できる日を楽しみにしています…。

【★てつや、巡業時代の思い出…。】

 平成六十一年十一月一日。待ちに待った『ふぶき梨花』の、初舞台の日がやって来ました。

所は、北海道・天塩郡・豊富町の『ホテル・サロベツ』である。九月二十九日の朝、『劇団暁』の一座を乗せた飛行機が、チラホラと雪が舞う『旭川空港』に着くと、一座は、ホテルから向けられたバスに乗り込み、更に北上して、今回の公演地『ホテル・サロベツ』に、着きました。そして公演初日。私達は、そとの景色を見て、驚きました。それもそのはず、『旭川空港』で、チラホラと降っていた雪が『ホテル・サロベツ』の、辺り一辺の山々は、雪に覆われ、窓を叩きつける程の牡丹雪が降っていました。それも十一月一日。

未だかって、見た事のない光景でした。そこで一曲、歌を作りました。その曲がこれです。

三咲てつや。作詞作曲。唄・石井友喜。

『初舞台』。

【★てつやの五行ポエム…。】

私の、作詞作曲作品の中でも…、

快心作の一曲です…、

この曲を唄ったのは、石井友喜です…、

見事に表現してくれた、石井先生に…、

ただただ感謝しております…。

作詞作曲・三咲てつや。

【★初舞台、唄・石井友喜…。】

一、雪に霞んだ、    峠道…、

  女の明日を、    決めた道…、

  堅い絆を、     知った道…、

  恋の道行き、    手を取り合って…、

  雪のサロベツ、   初舞台…。

二、母は涙で、     頬濡らす…、 

  あえて無言の、   父の顔…、

  不幸重ねて、    北の空…、

  旅の一座の、    舞台は吹雪く…、

  窓の向こうは、   牡丹雪…。

三、十一月の      サロベツを…、

  雪で覆った、    山や川…、

  すべて貴方が、   道しるべ…、

  これが私の、    女の一生…、

  夫婦舞台の、    幕が開く…。

【★劇団暁の巡業はつづく…。】

 『歳寄り劇団』・『老いぼれ劇団』と揶揄された、『劇団暁』に、待望の若い弟子が入門してきた。

昭和六十二年四月、『新潟ラドンセンター』公演中二十歳は過ぎていたが、丸々太った青年で、名前は『昆金正』。漫画『日本昔話』に出てくる、『金太郎』を思わせる風貌をしていた。

ところがどっこい、丸で女性を思わせる声で、彼が歌う歌が、また凄いのである。一世を風靡した『李香蘭』の様な歌声で、唄う歌も、『夜来香』。

『何日君再来』など。都はるみの『夫婦坂』『アンコ椿は恋の花』『涙の連絡船』の唄声が館内の御客様を驚かました。

風貌と歌声のアンバランスに驚いているのです。

 また彼の『陰マイク』の評判は上々でした。まるで、女性アナウンサーのような声で語る

番組紹介や、曲目紹介などが絶品でした。

また、舞踊ショーでは、山下清よろしく、『おにぎり』を食べる仕草などは、客席を、笑いの渦に巻き込んだものです。

入門時には、あまり期待をしていなかった彼が、これほど活躍をしてくれるとは、本当に有難い『金太郎』君でした…。