てつやの秘蔵DVD 2017/03/05

【Eテレ日曜美術館より】 『与謝野蕪村』

 俳人であり、画人でもある『与謝野蕪村』は、

1716。摂津の国・毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬町)に生まれる。

1737年.江戸に下り、俳人『夜半亭宋阿』の内弟子となる。

1743年。この頃、芭蕉の足跡を訪ねて東北行脚に出かける。

1744年.宇都宮で『歳旦帖』を刊行。『蕪村』の号を使う。

1751年。この頃、京都・丹後を行き来する。

1785年。12月25日未明に没す。『享年68歳』

〜菜の花や 月は東に 日は西に〜

〜うぐいすの 啼くや小さき 口あいて〜

〜名月や、夜に成りゆく 秋の暮れ〜

〜夏川を、越す嬉しさよ、手に草鞋〜

〜春風や 堤長うて 家遠し〜

〜朝顔や 一輪(りん)深き 淵の色〜

〜身に染むや 亡き妻の櫛を 寝屋に踏む〜

〜春の海 ひねもす(終日)のたり のたりかな〜

上記の句は、蕪村の俳句の代表的な句を紹介したものです。先達者『松尾芭蕉』を尊敬する蕪村は、江戸から北へ奥の細道を辿りました。

蕪村は元来、俳人として名高いのですが、実は文人としての蕪村より、画家としての力量が素晴らしいのです。

私としては、俳句が趣味で、絵画の方が本職でないかと思うほどです。

俳諧師の心を持った絵師。それが『蕪村』です。

〜狩衣の 袖の裏這う 蛍かな〜

〜みじか夜は 枕に近き 銀屏風〜

〜山暮れて 紅葉の朱を 奪いけり〜

てつやの秘蔵DVD 2017/03/04 

【Eテレ日曜美術館より】 『喜多川歌麿』

 これまで『日曜美術館』で紹介したのは、3月1日、『葛飾北斎』3月3日、『相田みつを』の二人でしたが、

3月4日は、『喜多川歌麿』を紹介致します。

私が学生の頃は、浮世絵師と言えば『葛飾北斎』『喜多川歌麿』『安藤広重』の三大浮世絵師を思い出します。

私自身は『富嶽三十六景』の、葛飾北斎が一番好きでしたが、役者になった現在では、

遊郭や、花魁、芸者・女郎など表現する様になって『喜多川歌麿』の方に目が行くようになりました。

一時は、浮世絵師として頂点を極めた『歌麿』は、『松平定信』による『寛政の改革』により、不遇の時代を迎えました。

それは、武士を頂点とする支配体制を立て直すため、厳しい風俗統制が図られたからである。

腕が振るえなくなった『歌麿』は、栃木に向かったと推定されます。

当時の栃木は水運によって栄えた商業都市で、栃木の豪商、『善野喜兵衛』に迎えられ、高さ5m、幅3mに及ぶ大作

『品川の月』『吉原の花』『深川の雪』の三部作を書き上げました。

さらに描く対象を広げます。

両国のせんべい屋の娘『富本豊ひな』浅草の水茶屋の評判娘『難波屋きた』『高島屋ひさ』など

『町娘三美人』と題して、娘の名前入りの絵を発行しました。

それが幕府の逆鱗に触れ、歌麿は、文化元年(1804)年。ついに手鎖50日の刑に処せられました。

当時の絵師仲間による誹謗中傷によったものだとされている。

〜隣の家に蔵が立てば腹が立つ〜と、いう事は今も昔も変わりがないようです。それにしても栃木の人が『歌麿』を助けたとは嬉しいですね…。

てつやの秘蔵DVD 2017/03/03

【Eテレ日曜美術館より】 『相田みつを編』

 大正十三年、栃木県足利市に生まれる。『書家で詩人』。

自分で思い描いた言葉を、自分独自の書で伝える。そして、誰にでも解る言葉で綴る事に徹して描くのを、モットーに表した庶民派書道家である。

彼の言葉に勇気づけられた人は数知れない。

幼い頃から短歌や書に夢中になり、十九歳の時に地元の書家に入門する。

二十三歳で、中国の『鄭文公費』を写譜。先人が残した言葉を、先人が残した書で、見事に書き納めたのである。

最高峰と言われる書展で、何度も入選。しかし彼は疑問を感じ始めました。そして皆んなが知っている、あの丸っこい書体が生まれたのである。

『つまずいたっていいじゃないか、人間だもの…』

『弱きもの人間。欲深きもの人間。偽り多きもの人間。そして人間の私…』

『いい事はおかげさま。悪い事は身から出た錆…』

『うばいあえば足らぬ、わけあえば余る。うばいあえば憎しみ、わけあえば安らぎ…』

『やれなかった、やらなかった、どっちかな…』

『生きているうち、働けるうち、日の暮れぬうち…』

『嘘は言わない、心に決めて嘘を言う…』

『自己顕示、自己嫌悪、私の心の裏表…』

どの言葉も、相田みつを自身の心の襞(ひだ)を表している。そして、私達皆んなが悩んでいるに違いない。仏の道にも通じる言葉に思えます。

NHKEテレの『日曜美術館』を見ていると、自分自身の凡庸さを痛感されます。自分自身が嫌になります。それでも見たい『日曜美術館』。

七十三歳、『三咲てつや』の昨日今日…。

てつやの、秘蔵DVD 2017/03/01

【Eテレ日曜美術館より】 『葛飾北斎編』

 私は、江戸時代の絵師の中で、イの一番に名前を挙げよと言えば、『葛飾北斎』の名が浮かびます。

『北斎』といえば、あの有名な『富嶽三十六景』を描いたのが、七十歳を超えてからの作品と言います。更に、グラフィックアートの傑作『富嶽

百景」を世に出したのは、なんと七十五歳だったというから驚きです。この『富嶽百景』を出した時から亡くなるまで、『画狂老人卍』という画号を

使ったと言われています。そして八十代になると毎朝の日課として獅子の絵を描きました。長寿を願い『日新除魔』として魔除けを念じました。

北斎曰く、「七十歳までに描いたものなど、とるに足らないものばかりだ。七十三歳、生き物の骨格や草木の成り立ちを、やっと掴んだ。八十歳に

なったら益々進歩し、九十歳では奥義を極め、百歳になったら、正に神技の域に至るであろう。

そして、百十歳になったら、絵の一点一画まで生きているように見えるだろう…」と。

この時から、『生涯現役』を念じていたのであろう。

しかし、『天保の飢饉』が、北斎の画風を変えるのです。高価な北斎の絵は売れなくなり、北斎は八十代半ばにして新天地を求め、江戸から240K

離れた信州の小布施に旅に出ました。その旅立ちに一句を呼んだ北斎。「八の字の、踏ん張り強し夏の富士…」。九十に近い北斎は生涯に渡って

四回も小布施に通ったというから驚きです。

現在、73歳の私でも10Kも歩けばくたくたなの85歳を過ぎた浮世絵師が、240Kだなんて信じられません。今でも小布施の北斎館には、北斎が

描いた山車の天井絵が何点も残っていると言う…。